【監督失格】



監督失格」公式サイト
http://k-shikkaku.com/index.html

  • 8日の木曜、バイトが終わってから六本木へと出かけた。
  • カルトAVの雄として有名だったという監督の平野のことも、飲酒と安定剤による事故で亡くなったという女優のこともまったく知らなかったのだが、庵野秀明がプロデュースしたということで興味を引かれていた映画だった。
  • 平日の午前中という時間帯だけあってヒルズには観光客の姿も殆どなく、このような場所における「非日常」はのどかで平和な雰囲気に満ちていた。
  • 巨大で清潔できらびやかなシネコンも同じ状態だったが、しかし客席は三分の一ほど埋まっていた。心なしか、皆、居心地が悪そうに見えた。視線の先のスクリーンで上映されている光景は、あらゆる意味でこの場にはそぐわなかった。間違えている、という感じだった。あきらかに、中央線沿いに立地する映画館か、渋谷のラブホ街近くにある映画館に持っていくべきものだった。
  • どうもこの作品にはしらふで接する気になれなかったので、外で買ったチューハイをガブガブ飲みながら観ていたが、まったく酔えなかった。
  • これは果たして、上映が許される映像なのだろうか?ここまでして作る必要があったのだろうか?
  • そんなモヤモヤとした、濁った感情を反芻していた。
  • 特異な強度を持った映像なのは確かだった。
  • それは快の感情に関わるものではなかった。正視に耐えないものであると同時に、目を離させなくする強さを持っていた。死んだ女をめぐって、人々が、あまりにむき出しの、なまの感情をぶちまける姿が観る側に拭いがたい印象を刻んだ。
  • ドキュメントとしての単純素朴な完成度から言えば、荒削りという段階を通り越して非常に乱暴なもので、そこを理由に評価しない人もいるようだったが、この作品にとっては意味の無い批判だと思えた。本質的なことではなく、的が外れているように感じられた。
  • 映画は、死者とその家族と監督との極めてプライベートな関係性を、半ば露出狂的に晒すことで成立している。それは宙ぶらりんで取り残された監督の、奇妙な形をとった長い長い殯(もがり)のようなものだろう。身勝手で痛々しいリハビリのようなものだろう。そんな歪な自己憐憫に、当たり前の仕上がりを求めても仕方がない。「作りたくないんですよ、ほんとうは、こんなもの」と吐き捨てる平野の口ぶりは、「でもやってるんでしょ」という作為以上に、やはり真実味を持ってもいた。
  • 「公開が許されるのか」というのはもちろん、一時は親族との弁護士沙汰になったという、女優の遺体を彼女の自宅で発見した際の一連の記録を指す。あまりに「完璧な」アングルで放置されたカメラによって捉えられた映像は、結果的に録画停止をしなかった/できなかった平野の弟子、ペヤングマキの業深い「機転」によって、「遺書のように残される」こととなった。
  • 恐ろしい事故の瞬間を記録した映像など世の中に溢れ返っているし、最近はどっかの誰かが自殺する一部始終までネットで公開されている始末だ。そして平野は遺族からも許諾を得ている。しかし、それでもこれはあまりに生々しく、私的だ。この場面において、映画の前半部分で映し出されていた生前の女優の、自由奔放な、わがままな小動物のような魅力が、一気に負の作用を強める。あまりにも効果的な悪趣味。映画の紹介で、「正気では出来ないような編集を経て…」とあったが、確かに、これは、「正気」ではできない。
  • 「作品」のためであれば、どれほど倫理的な疑問が生まれる素材だろうが容赦なく使う、それはひとつの見識であり、表現者としてあるべき姿勢とも言えるだろう。けれど最近、ぼくは無条件にその傲慢さを肯定する気分にもなれないのだ。「監督失格」での平野に対して、「そこまでしなくちゃいけないのか」と、強く感じるのだ。
  • 「そこまで」というのは、問題の映像を使ったこと以外にもある。選択的に自分の姿をさらけ出す、むき出しにすることで成立するストリップがセルフ・ドキュメンタリーの作法であるとして、「そこまで(晒す)しなくちゃお前は気が済まないのか」ということだ。趣味的な価値判断かもしれないが、そこには、表現するということが孕む本質的な醜さ、傲慢さ、どうしようもなさが強烈に浮かび上がっている。
  • そして、平野の自己愛は鏡となって、ぼくの姿も映し出す。完成したものが胸焼けするほど濃密だからこそ、いっそう、耐え難い。
  • ネットで誰かが【衝撃的なものを観たのは確かだが、二度と見たくない】とか書いていたけれど、まあ、そんな感じ。

追記

  • とにかく、色々と「キツい」映画であることは確か。精神的に下がっている人には薦められない。あと、彼氏彼女と無残な別れ方をした人にも薦められない。観る側の過去の男女関係によっても、評価が相当に変わると感じられた。

【西へ、2011】3/3 甲子園、あるいは装置としてのスポーツ観戦



  • 和歌山〜三重をまわった翌29日、昼前にNさんと分かれ、今度は奈良に住む野球狂の友人Zさんと阪神甲子園球場に出かけた。一度くらいは行ってみたいと思っていた場所で、滞在中にタイミングよく阪神タイガース横浜ベイスターズの試合があったからだ。
  • その時期から松井秀喜が日本にいた2002年まで、ぼくはそこそこ熱心な野球観戦ファンであり、巨人ファンだった。
  • 球場に行くことはめったになかったが、テレビで放映されている試合はほとんど観ていた。セ・パ両リーグの選手成績も詳細に把握していたし、中学生のときは(子供にありがちな行為だ)さらなるデータ気違いであり、過去の無名選手や球団の成績などを暗記することに熱中していた(当然、現在は全て忘れてしまった)。
  • 2002年は巨人が日本シリーズも含めて圧倒的な数字でシーズンを制し、松井も準三冠王の成績を残すなど、およそ文句の付けようがない最高のシーズンだった。そのせいか、オフに松井がメジャーリーグに挑戦するためFAで渡米してしまうと、達成感とも虚脱とも言えない感情によって少しばかり野球を観ることに疲れを覚えてしまった。
  • そして前年の反動のようにして起きた2003年のチーム成績急下降、球団幹部の醜悪な現場介入による原監督の更迭と、その後の堀内新体制下の最悪な二年間のあいだに、ぼくの体内から何かが消えてしまった。以前のような野球観戦への熱は失われていた。
  • とりあえず惰性の巨人ファンを続けてはいたが、テレビで試合を観る回数が激減し、試合の勝敗チェックすら怠るようになった。トレードや引退による選手の入れ替わりや成績などにもまるで無頓着になってしまった。WBCを始め、主要な野球のニュースぐらいは把握していたが、その熱心さは以前と比較にならなかった。
  • それでも、2007年から上向いてきた新しい巨人の躍進は、多少とは言え再び野球観戦に興味を覚えさせる切っ掛けとなった。
  • ただ、もうテレビで試合を観ることはなかった(大体、民法からは殆ど中継が無くなってしまった)。ぼくは、ごくたまに球場へと足を運ぶようになった。プロ野球の全体を追うというより、単に野球そのものを会場で観ることが楽しくなっていた。



  • Zさんと合流したあと、少し早い気もしたが、17時前には甲子園へ到着した。
  • 日本一の知名度を持つ球場は近年の大改装ですっかり真新しくなっていた。名物だった外壁を覆いつくす蔦も撤去され、植え直しがはじまったばかりで、日が落ちる前の小奇麗なその姿はどこか伝統の威厳に欠け、間が抜けて見えた。
  • 時間まで近くの居酒屋に入り、ビールとキムチ冷奴でZさんと色々話しながら、威勢よく球場まで行進する縦縞ユニフォームの人々を見物した。球場の近くに乱立している黄色い虎、虎、虎のグッズを置く店や、我が物顔でのし歩く応援客たちは周辺の空気を明らかに他所とは異質なものに変えていた。それらは結構な見物であり、辺り一帯はもはや単なる球場周辺地域ではなく、「甲子園」という観光地なのだと強く感じた。
  • 開場時間が迫り、店を出て球場入口に向かうとき、ごく自然にZさんもバッグからユニフォームを取り出していた。番号は22だった。藤川球児。ぼくは目を見張った。Zさんは野球狂であると同時に真性のトラキチでもあったから、理屈の上でこれはまったく当然至極の行為でしかないのだが(そもそも、いま、目の前を大量に歩いている)、身近にいるぼくの知人友人にはスポーツやスポーツ観戦を愛好するファンを嫌う人も少なからずいたため、その率直な熱意は新鮮だった。



  • 「甲子園の空の眺めはホントいいですよ。ぼく凄く好きなんですよ。日が落ちてきたあたりが一番いい時間ですよ」
  • レフトスタンド最上段に近い指定席に陣取ったあと、いきなりビールを買いながらZさんは球場の視覚上の美点について力説していた。言われたとおりに目をライトスタンド側に向けると、確かにそのパノラマは見る人間の気分を高揚させ、感嘆の声をあげさせるに十分なものだった。開けた空に漂う雲のうしろから夕暮れの太陽が透け、さらに溢れ出しながら激しく輝いている。次第に日が落ちてゆくにつれ色彩は濃さを増し、膨れ上がった鈍い灰色の雲と光の混交は、荘厳とすら言いたくなる相貌を見せていた。
  • プレイボールから一時間ほどしたころ、強いにわか雨が降り出してきた。何の用意もしていなかったぼくは慌ててビニールのレインコートを買いに走ったのだが(Zさんは手際よく持参した雨具をさっと被って試合を見続けていた。周囲の観客は雨など気にしていない人間が大半だった)、しばらくしてそれが止むと、完全に夜の闇へと落ちる手前、暗いコバルトの空を背景にまばゆく球場照明が点き始めた。「阪神園芸(株)」によって完璧に整備された天然芝や黒土が、その人工の光に照らしだされる。
  • ほぼ満員のスタジアムは黄色と白のユニフォームで埋め尽くされている。レフトスタンドの片隅で僅かばかりマリンブルーの集団が対抗するように気勢を上げているが、今にも飲み込まれそうに見える。のべ数万のメガホンが絶え間なく打ち鳴らされ、いくつかお定まりの台詞を機械的に反復する数千から万の絶叫が絶え間なく響き、これもお定まりの田舎くさいメロディをブラスが吹き鳴らしている。
  • 完璧だった。その瞬間、甲子園は集団ヒステリーを伴う野球観戦の場として、美しく完成していた。






  • 試合そのものは、残念ながら強い印象を残すものではなかった。
  • 序盤は雑に点を取り合ったが、中盤から互いに拙攻を繰り返してテンポが悪くなり、凡庸な内容で終わった。どちらかと言えば阪神が追い込まれてゆき、最後はロープ際まで下がらされたような状態になっていた。
  • Zさんが番号を身にまとう守護神・藤川球児も九回に危機を迎えたが、横浜において数少ない危険な一撃を持つ打者である四番・村田を敬遠するという緊急判断の結果、なんとか救援失敗を回避した。結局、試合は九回終了で引き分けとなった。三月の震災に由来する、電力供給への配慮で設けられた時間制限によるものだった。今年はこの理由からの引き分けが本当に多い(セ・リーグ首位のヤクルトは8月23日時点で13に達している)。
  • こう書くと真率な野球ファンに刺されるかもしれないが、試合の最中もっとも強くぼくを捉えていたのは、実際のところ選手たちのプレーではなかった。
  • プレイボールのずっと前から休むことなく目をむいて怒鳴り続け、応援をやめないタイガース・ファンの全体を観察している方がより面白く、まったく退屈しないのだ。外野の目線からすれば、どの球団も似たようなものと言ってしまうことも可能ではあるが、しかしそれでも、甲子園に集まってくる虎好きたちは差別化しなければならない。
  • ぼくらの前方に座っていたむさ苦しいおやじたちは、それぞれ「猛虎繚乱」「猛虎神撃」などと刺繍されたユニフォームを着こんでいた。頭にはタオルか鉢巻を締め、サンダルと短パンでメガホンを振り回していた。そして阪神の攻撃中は「ホームラン!ホームラン!」横浜の攻撃中は「三振!三振!」と途切れることなく叫び続けていた。
  • 試合開始前、おやじたちはガソリンを補給するように次々ビールやチューハイを飲み、売り子の女の子に「また来たで!」「覚えとる?」などと話しかけていた。女の子は「☓☓戦のときの☓☓さんでしょー!」と笑顔で口からでまかせを飛ばしていた。Zさん曰く、客に積極的に話しかけて次々に飲ませるのが企業戦略なのだという。
  • 「ある種キャバクラですよ!」Zさんは力強く断言していた。よれたユニフォームや鉢巻を汗ばませ、酒に紅潮した顔で性的にも興奮したおやじたちと人造笑顔の彼女とのやりとりは酷く下品で、だが、どこか滑稽さの持つ不思議な趣もあった。
  • そうしたおやじたちの集団は球場中に無数に存在し、誰もが怒りと歓喜を放出することで陶酔の極にあった。選手を激しく野次るのはもちろん、試合が思い通りの展開にならず苛立ってくると、一部のおやじは横浜の応援団に対しても激しい口撃を繰り返していた。
  • それはいっさいの諧謔に欠けた単に醜悪な罵声に過ぎなかったが、ときには失笑を誘うユーモアを持った台詞もあった。
  • 「お前らのおかげで帰りの阪神電車が混むんじゃボケ!」
  • また、ぼくのすぐ横に座っていた女の子は、あがる時期を逸したバンギャ崩れといった場違いな格好をして、「咲き」「手扇子」をしながら各選手の応援歌を調子っぱずれにうたい続け、一緒に来ていた母親らしき女性と、へまをした阪神の選手や好プレーをした横浜の選手を罵倒していた。
  • 試合途中、電光掲示板に他球場の経過が表示されたとき、「くったばれ読売ィ!」と憎々しげに叫んでいたその声は信じられないぐらいドスが利いていた。




  • ぼくは停滞する試合と次第に苛立ちを強めるファンを交互に眺めながら、この場には、スポーツやスポーツを観ることに熱狂する人間を嫌悪する友人たちの嫌悪の正体、具体的理由があますところなく顕になっていると思った。
  • 「ゲームの中で勝ち/負けを争う行為は戦争を正当化するメタファー。おぞましい」と言った人がいた。
  • 「群衆の理性を失った熱狂は獣のようだし、マスゲームにも近い応援はファッショ的で恐ろしく、そして醜い」と言った人もいた。
  • 「恣意的なルール下で成立する不条理なゲームに肉体を最適化するよう訓練したり、その奇妙な成果を見て熱狂するなんて不毛は理解出来ない」と言った人もいた。
  • その指弾は裏を返したとき、対象を崇拝する理由に変化する。ぼくはそのどちらも理解し、共振することが可能な人間だった。極めて野蛮な見世物の構図であり、同時に強い引力とエネルギーを持った熱病的行為であることを、からだで把握していた。
  • それは、日常の暮らしにおいて、社会的存在として抑制せざるを得ない「ヒト」の様々な感情を、「なま」のまま漏れ出させる装置だった。スポーツ観戦、球団を応援するという非日常へのエクスキューズによって、剥き出しの差別感情や過度の錯乱、常軌を逸した狂騒が正当化される…そんなむちゃな幻想が共有される場だった。
  • 喉もチギれよとばかりに声を振り絞る男たち女たち子供たちの自我が消えた顔、顔、顔、顔また顔。「応援」へと没入する万の群衆は、導かれるように、自動機械のごとくメガホンを振り、拳を振り上げ、掛け声をあわせる。球場を出てしまえば、一人の冴えない労働者に戻ってしまうのかもしれない脂ぎったおやじたちは、この異次元空間では無条件で価値を与えられ、承認される。叫びさえすればいい。それは祝福される信仰告白であり、断固たる宗教的実践なのだ。


  • 試合が終わり、うなだれ、疲れきった表情でとぼとぼ尼ヶ崎駅まで歩く人々からは、先ほどまで纏っていた強いオーラが消え失せている。数万の人間が、体までも萎(しぼ)んでいるように見える(阪神が勝たなかった場合、ファンがいっせいに駅へと殺到するため、周辺の混雑は大変なものになる)。勝とうが負けようが、ゲームは終わり、もはや聖なる加護は失われている。次の夜、またその次の夜、そしてそのまた次の夜…、再びここへ戻ってくるまで、彼らは受難を耐えるのだ。

追記

  • 七回裏の、お馴染み風船飛ばし。異常な量で、なかなか圧巻の光景だったので、風船そのものを撮影した。
  • 帰京したあと、写真を見た友人が言った。「顕微鏡で見る精子か、コンドームが宙を舞っているようだ」「グロい」。確かに、そう見えなくもない。不思議な図像だ。








【西へ2011】 2/3 中上健次を通り抜ける




  • 大阪で降りた目的も、昨年と同じく府内および近隣県に住む友人数人と会うことが中心だったが、滞在した約3日のうち1日は中上健次の物語世界の舞台である和歌山〜三重を、電車でぐるりと、「通り抜けた」
  • 新大阪発「特急オーシャンアロー1号」に、朝、天王寺から乗り込み、終着の新宮へ。そこでおよそ一時間ほどの待ち合わせを挟み、名古屋行のワイドビュー南紀6号」を使って、津にて下車。最後はJRで津〜亀山〜加茂〜大阪というルートで、19時40分ころ帰阪した。
  • 下車して「路地」を散策している時間的余裕はなく、ぼけっと熊野灘を眺め、ときどき中上健次の作品を読んでいた。
  • 時刻表を調べる前は、鈍行を使っても夜の早い時間には大阪へと帰ってこられるだろうと思っていたのだが、完全に誤っていた。
  • まったく可能ではなく、南紀に無知な関東人の、浅はかな読みだった。和歌山〜三重間のJR紀勢本線は鈍行の数が少なく、乗り継ぎも極度に悪かった。ネット上で、鉄オタが「乗り倒すなら、新宮辺りで一泊するのがベターだ」というようなことを書いていた。しかし、その日は友人宅に泊まる予定もあり、不可能だった。止む無く、ローカル特急を2つばかり乗り継ぐという手段を選んだ。
  • 定価でJRから購入するのは馬鹿らしく感じられたため、大阪の友人と二人で天王寺と梅田の金券ショップをあちこち探し回ったが、誰もが訝しげに南紀特急?」だの「そういうものは置いてません」だのと、にべもなく在庫を否定する。ひどい場合は、「新宮までの特急は…」と尋ねると、「は?しん…なんですか?」とくる有様だった。諦める寸前、ようやく一軒だけ新大阪〜新宮の特急回数券を置いている店を発見したが、大した割引率でもなく、改めて紀伊半島南部における電車事情の悪さを実感した。出発前、三重出身の友人に大阪の金券ショップで乗車券が売っていそうか聞いてみたのだが、即座に否定された。
  • 「あの辺りの乗車券で金券ショップとか、ありえない。まあ、探してみてもいいとは思いますが、ユーロスペースのレイトショー割引券よりも稀少だと思います」そう断定していた。その通りだった。
  • さらに友人は断定を続けた。「なぜ存在しないか?それは、天王寺から新宮に行く人が存在しないから。せいぜい、和歌山市まで。そして、僕は今まで南紀特急に乗ったことがあるという人に出会ったことがない。きっと、ほぼ貸切状態になる」



 



  • しかし、実態はそれほど過酷なものではなかった。天王寺で乗り込んだオーシャンアロー1号の指定席はほぼ満席(!)とアナウンスされ、実際、多くの観光客、通勤客が乗車していた。車両も悲惨なポンコツとは違い、ごく普通の特急車だった(だが、確かに終点の新宮まで乗っている人間は少なかった。和歌山市海南市を通過すると乗車率は極度に下がり、印象としては白浜で9割近い人が下車していた)。
  • 窓外は青く晴れ渡り、綿菓子のような雲があちこちで巨大に膨れ上がっていた。石油コンビナートの排気筒、変電所、高圧線の鉄塔や電線が目立つ都市部を抜けると、あとは急に、広がる田んぼと点在する瓦屋根、なだらかな山と海が交互に現れるだけになった。にわか雨も予報されていた為か、ときおり、太りきった雲が暗灰色のかたまりになって空の鮮やかさを遮っていた。
  • 目的地まで、写真を撮りながら、景色が高速で過ぎ去るのを眺めているだけの状態が続く。南紀が内包する、「のどかさ」みたいなものを、表面的には感じられたが、それ以上の印象を持つのは難しかった。途中、醜悪な日本バッシング映画「The Cove」でイルカ漁を指弾された太地町の駅も通ったが、あまりに一瞬のことで、「ああ、ここがそうなのか」と思うだけだった。以前、村上龍中上健次に関して「【岬】などを読むと、紀州のあの辺りには何かわけの分からない怪物みたいなものが存在していると思わされる」などと書いていたものだが、そうした雰囲気とはほど遠い、と思った。
  • 待ち時間のあいだに少しだけ街を歩いてみた新宮でも、それは変わらなかった。激しい暑さと光のなか、乾いた海辺の田舎町にはほとんど人影もなく、ただ静けさだけがあった。海辺まで歩く途中に見つけた創価学会の集会所が、風景のなかで奇妙に浮いていた。
  • 熊野の山にも入らず、滞在とすら言えない、ただ「通り抜けた」人間が持つ印象など、この程度のものだろう。中上健次の影を感じることは、なかった。とりたてて文学に興味が無い人ならば、まさに当たり前すぎる感想なのだろうけれど(そういえば以前、和歌山の自民党県連が作成したマニフェストの欄で、「和歌山から生まれた地元の作家」が挙げられていたが、その数人のうちに、中上健次の名前はなかった)。


 



  • 名古屋行の南紀特急に乗り込んだのは12時台後半だった。
  • この特急も、オーシャンアロー1号について辛辣に批評した三重県出身である友人が言うほど悲惨な乗車状況ではなかった。車両はやや古臭かったが、出発前には自由席のためにホームに人が並び、指定も含めて半分程度は埋まっていたと思う。松坂や尾鷲、多気などで、途中から乗車してくる人もいた。
  • 新宮から熊野川を渡ると三重県に入り、また山、森、海、瓦屋根の続く景色がはじまる。天気が崩れる兆候か、雲の灰色が濃くなり、空の白さも増していた。
  • 途中、三重県多気郡出身の友人による、県内の列車事情やその他の県講釈を色々と思い出して、景色を見ながら反芻したりしていた(下記のように、かなり誇張して表現している部分も含め、なかなか面白い分析だった)。


「三重は、近鉄があるところは便利だが、 鳥羽市より南のJRだけのところは、最悪。高校入学で、下宿するレベル」
「基本的に車社会。鈴鹿とか四日市は、いまでもバリバリ伝説の世界。鉄道を使う人があまりいなくて、女子供の乗り物。高校生はバスの方が多い。」
「伊勢や松阪でも、電車に乗るのは、高校生だけ。あと名古屋や大阪に遠出するとか。で、十八歳を超えたら、各駅停車に誰も乗らない。名古屋に行く時は松阪駅まで車で行く。東京の人からしたら、電車に乗るために駅まで車で行く、というのが信じられないかも。」
「高校生としては、電車は近鉄が最強。JRは高い、少ない、ださい。デートでJRは、デートで松屋に行くレベル。近鉄特急>壁>快速みえ>近鉄急行これが真実」
三重県民の中でも格差がある。北へ行くほどに都会。新宮(和歌山県だけど)とか尾鷲とか熊野とか、秘境のレベル。精神的な距離は沖縄より遠い。数時間あれば東京にも名古屋にも行けるからね」
「南の人が北に行っても、北の人が南に行くことはない。鈴鹿サーキットとかナガシマスパーランドとか、北には行く。南に下ることはない」
「伊勢が南限。伊勢市よりも南に下ることは、人の道理として、ない」




  • 津で下車したあとは、文頭で書いたように亀山から大阪まで、三重と京都を抜けてJR関西本線で帰阪した。津に到着した辺りで激しく雨が降り出し、亀山ではJR線の遅れが発表されていた。さきほどの友人は尾鷲や熊野を「秘境レベル」「批評」していたが、しかし、亀山〜加茂のあいだに広がる陰鬱な森林、崖、河川が織りなすパノラマは、ある意味で南紀よりずっと強くそれを感じさせた。途中では伊賀忍者ゆかりの地を抜け、遠方には柳生の里も確認できる。
  • そして、おまけに、ではないが、いつの間にか濃い霧が車両を包んでいた。
  • 震動の激しい、わずか数両しかない老朽電車でそんな風景の中を走り抜けるのは、とても印象深い経験だった。






  • 亀山から一時間ほど乗ると、加茂から三駅手前で、「月ヶ瀬口」という駅に着く。
  • 三重、奈良、京都にまたがるその辺り一帯は、古くから国の名勝にも指定される月ヶ瀬梅林への入り口だ。
  • 「月ヶ瀬」は、犯罪好事家のあいだでも広く記憶された土地である。
  • 1997年に起きた「奈良 月ヶ瀬村 女子中学生殺人事件」の舞台となったからだ。犯人の丘崎誠人は無期懲役を宣告され、刑務所で自死した。丘崎は滋賀のソープランドへ行った帰り道、広大な梅林が広がる山間部の奥で、集落の顔見知りだった下校途中の女子中学生を大型車で跳ね、石で頭を砕いた。
  • そして、被差別部落の問題が深く関わったこの事件が起きた場所からさらに奥へ進み、名張川を下ってゆくと、また違う事件の記憶が存在する。
  • 「第二の帝銀」とも当時は呼ばれ、いま現在も法定で無罪への闘争が行われている有名な冤罪事件、「名張毒ぶどう酒殺人」が起きた三重県名張市葛尾地区に到達するのだ。
  • どちらも、因習まみれの村落共同体が抱える闇、充満した負圧によって引き起こされた惨劇という共通項がある。未だに、葛尾でその話題はタブーだという。
  • 雨と霧にけぶる深い森林は、自然と、事件への飛躍したイメージを膨らまさせるのだった。




  • 初めて乗った路線だということに加え、余裕の無いタイムスケジュールだったが、ほぼ予定通りの時間で大阪へと帰り着くことができた。加茂からは、一駅ごと、次第に都会化してゆく風景の鮮やかな落差に、月並みな感嘆を漏らした。
  • その後、大阪駅で落ち合った友人と、「ホワイティ梅田」という、なんともやるせない響きの名前を持つ地下街でギトギトした串かつを齧りながら、「大阪との落差はやっぱり凄い」というような話をした。
  • 「マー、実際、新宮ってどこ?という感じはあるし、だいたい和歌山とか三重そのものが、全体的にこっちからすると影薄いよなあ」
  • 金券ショップも一緒にまわってもらった、豊中に住むNさんはそう笑っていた。三重から上京した友人が言うとおり、関西大都市圏にとっては、「秘境のレベル」なのだろうか、南紀のあの辺りは。それも、「なにかわけの分からないものがいる」場所、畏怖される土地ではなく、単に「知らない。興味ない」という意味での、嘲笑されるべき「田舎=秘境」
  • 串かつとビールの満腹感で朦朧としながら、周囲で阪神に対して怒鳴り散らす大阪のサラリーマンを見ていると、その感覚も理解できるような気はした。
  • (続く)

【西へ、2011】1/3 岡山からはじまる




  • もう一年が経ってしまった。「もう…経った」これは何度書いても褪せることがなく、新鮮な驚きと愕然とした思いが脳に飛来する。
  • いつもより一週間ほど時期がずれたが、今年も7月26日から31日のあいだ、鈍行を使ってぶらぶらと西日本の友人たちを訪ね歩いてきた。
  • 昨年は徳山に住む無頼の小説家Hさんと、旧帝国海軍の特攻兵器である「回天」の基地だった島に行く目的にあって山口まで足を伸ばしたが、今回は岡山に下車して東に折り返した。岡山のあとは大阪に三泊し、静岡でも一泊してから東京に戻ってきた。
  • 三月の震災以後、計画停電が終わってからも関東東北は基本的に電気の節約を前提とした社会として動いているが(少なくとも建前の上では)、西日本に仕事なり避難なりで移動していた、少なくない数の批評家が、そして身近な友人知人も「西(とりわけ、駅の拡張工事と新規デパート進出、既存グループの増床工事が終わった大阪など)は東より物理的にすごく明るいし、雰囲気ものどかだ」と口を揃えて発言していた。
  • あれから四ヶ月半が経過した後もそういうギャップを感じられるのか。今年はその辺りにも興味を惹かれていた。
  • 本年の折り返し地点である岡山では、毎年、超優秀な変わり者の内科医にしてアマチュアのバイオリン奏者であるTさんとお会いする。
  • 特に「岡山LOVE」な店に行くわけでもなく、その辺の適当な飲み屋でダラダラと酒をあおりながら、音楽や文学や世間の文化事象について取り留めもなくしゃべり、そして、「医者として」は「政治的に」おおっぴらに出来ない、Tさんの挑発的な倫理感に基づく医療や生命への見解などを拝聴しているうちに時間は深夜となり、翌日は悲惨な二日酔いのまま次の場所へと発つのだった。
  • 先々週の再会でも基本的にそれは変わらなかったが、しかし、やはりというか、どうしても三月の震災以後、福島を中心にして続いている「出来事」に関しても、話題が及ぶのは避けられなかった。詳細について書くことはしないが、ただ、「出来事」そのものと、それらをめぐって飛び交った/いまも飛び交っている様々な言説に関して、ぼくとTさんとで、考えている/いたことの方向性や、それらへの評価はだいたいの所で一致していて、ぼくはそこに妙な安堵感を覚えたのだった。


  • 余談として、ちょっと面白かったのは、Tさんは中学生のとき、核分裂の熱を利用した発電に興味を覚え、軽水炉の仕組みを調べたのだが、そのとき、「上手いこと考えたなあ」と感心すると共に、やや脱力もしたという話。
  • 「でも、要するにそれってヤカンと同じでは?」と(実際、昔の学研本みたいなものでは原子力工学の研究者が【これは一種のヤカンと言っていいでしょう】などと発電原理について口にしている。なんとも危険なヤカン)。
  • それを聞いて、「つまり、核ヤカンですね!」とぼくは笑った。原子力発電所については他にも、「どんな物凄いエネルギー源を使っても、最後は結局タービンでしょ?タービンを回すという発想から脱却して欲しいんだけど。タービンはださい」と言っていた友人がいたものだ)
  • 日付が変わる辺りを境にして、微妙に記憶が曖昧なまま朝を迎えると、昼前には岡山から大阪へ発った。
  • 案の定、起き抜けから強い不快感に襲われていた(なぜか今年はいつもよりずっと酷く、そこまで滅多矢鱈に飲んでいた記憶もないので、自分でも驚いた)。
  • そのまま、刺すような頭痛と内臓全体の強烈な悪心を抱え、朦朧としながら全身に夏の暑熱を浴び、同時に「形而上的二日酔い」キングズレー・エイミス。訳:吉行淳之介)にも苛まれながら、鈍行に揺られていた。(続く)

原子力から種苗へ 〜緑のカーテン日記(ゴーヤ)/2



原子力から種苗へ 〜緑のカーテン日記(ゴーヤ)/1
はてなフォトライフ「緑のカーテン」

  • 緑のカーテンを開始して、約三週間が経過した。
  • 適当に水と肥料を与えるだけという超ずさんな管理で果たしてまともに育つのかと思っていたが、予想以上にぐんぐんとツルは天にむかい、花が咲いては散り、プランタ部分には菌類も頻繁に顔を出す。いまは繁茂といえるまでになって来た。特にここ一週間は太陽が激しく照りつけているため、日ごと、目視で確認できるほどの伸びを示している。
  • 下記は左図が開始日、右図が本日の写真。成長のほどが把握できるだろう。遠からず先端部が二階付近まで到達しそうな勢いだ。


 





  • 一週間ほど前から実も付きはじめ、以後もぽつぽつと増えてきている。
  • 昨日は接着の不良によって壁面からネットが落下するというトラブルがあったが、その衝撃のさい、一番大きくなっていた実が一つ千切れてしまった。売られているものに比べれば明らかに小さすぎるけれど、せっかくだからということで夕食に供された。
  • 意外にも、まずまずの、いや上出来の味わいだった。
  • 今年は異例の速さで梅雨が開け、季節は本格的な夏に入った。これからも暑い日が続き、太陽はますます強烈になるだろう。まだまだ「カーテン」には程遠いが、どこまで規模を広げていくか、楽しみだ。





告知:映画美学校公開レクチャー【Different!Cuban music!】

  • イベントの告知、および宣伝です。
  • 以前、【公開特別講義 キューバ・アンダーグラウンド】という、渋谷・映画美学校でのイベント告知を行いましたが、今回はそれに引き続くものとして行われる、キューバ音楽」に関するレクチャーです。
  • 上掲の通り【異形なり、キューバ音楽!Different!Cuban music!】と銘打ち、トークを担当するのは前回に引き続いて樋口仁志さん。
  • 樋口さんは、御自身もミュージシャンであり*1、であるが故にコンテンポラリー・アート以上にキューバ音楽に関して膨大な知識と、ユニークな知見をお持ちです。
  • 9年に渡る滞在中に築いた現地音楽業界の人脈も豊富で、過去にはハバナからラティーナ誌に「現地事情」の寄稿もされていましたので、非常にディープなディティールを伴った話が聞けることでしょう。
  • ステロタイプでパッパラパーなラテン観はもちろん、中村とうよう村上龍が宣伝したようなアングルでもない、市民にとっての、ナマなものとしての音楽、に関しての。
  • そして、一回限りではなく、さらに発展していくことも予定される、継続性のあるレクチャーになることも目論まれています。
  • お時間のある方は是非!

緑のカーテン日記(ゴーヤ)/1




  • 先月の中頃だったか、NHKのニュース番組に、福島第一原子力発電所から僅か二十数キロの距離にある南相馬の農家の方が出演し、取材を受けていた。
  • 原発事故による経済的な被害を克服する為、種苗農家が中心となって南相馬市震災復興に取り組む農業者の会」を結成。夏の節電対策として注目され始めた緑のカーテンに最適なゴーヤ苗販売のプロジェクトに取り組んでいる、と。
  • プロジェクトの名前は「Plant to Plant~発電所(Plant)の電気から緑の苗(Plant)へ」というようだ。


甚大な被害をもたらした、東日本壇震災に伴う津波東京電力第一原子力発電所の事故。そのような状況下で、地元農業者が意欲をもって農業再建に踏み出せるよう、地元種苗農家が中心となり結成した団体です。会の目的は、現実的に今できる生産活動を通じ、その喜びを復興の足掛かりとしていくことです。


南相馬市震災復興に取り組む農業者の会とは
http://plant2plant.org/about.html

  • それを観ていた母が、わたしも支援に加わると主張し始め、実際に「Plant to Plant」から苗を購入。数日前から一階窓際にプランターを設置し、育成を始めた。
  • ぼく自身は生まれてから直接に福島県と接点を持つことは殆ど無く、ずっと東京で生きてきたが、母と伯母の出身地は原発が立地する双葉町だ。3月の地震の際、まだ同地に住んでいた本家の人間や彼女たちの友人知人は、報道の通り埼玉や山形に避難することとなった。
  • 戦中から戦後にかけ、いまは鬼籍に入っている祖父母は県内東部を転々としながら教鞭をとっていた。東京オリンピックの直前には、祖父が、いまや全村避難となった飯舘村で小中学校の校長をしていた時期もあったという(おそらく菅野村長は教え子だろう)。
  • 既に東京へ出て長い月日が経ち、地元コミュニティから切り離されて久しいとはいえ、母や伯母にとって原発事故は、紛れもなく「ふるさと」の喪失につながりかねない凶事だ。
  • プラント事故そのものに関しては、国と東京電力による収束作業の成功を辛抱強く待つしかないが、ぼく(ら)もゴーヤに水をやることぐらいは出来る(ここでエヴァンゲリオンを想起する方は色々と重症なので、人生について考え直した方がいいかもしれない(笑)。
  • やや時期が遅れたうえに量的な問題もあるので、「カーテン」になるかは相当に怪しいが、今後、ときおり「はてなフォトライフ」も含めて、経過をアップロードしようかと思う。