「嘆き」より「希望」を語ることについて

  • 少し古いニュース(?)だが、小説家の金原ひとみが、被曝を懸念して子供と岡山に疎開しているという話を知った。東京には戻りたくないそうだ。


 【制御されている私たち 原発推進の内なる空気 金原ひとみ(東京新聞)

  • この短いテキストは非常に切迫した調子であり、やや無防備とも思えるほど、むき出しの動揺と恐怖に支配されている。
  • 三月に起きた、巨大地震と大津波をきっかけとする福島の原子力発電所におけるシビア・アクシデント以降、ネットではこうした内容の(そして、もっともっと混乱し、憎悪にまみれた)ブログエントリやツイートを頻繁に見かけるようになった。
  • 彼女の行動は多くの人よりはるかに過剰だが、いま幼い子供を持つ親たちが抱く懸念は、大なり小なり金原と似通ったものだろうと思う。言ってみれば、ごく当たり前の感情だ。ごく当たり前なのだけれども、いち私人を超え、文学者という立場で公器に書く内容とすれば、また違った意味性を持ってしまう。この女性の社会や国家に対する視点、想像力、倫理の有様が示されてしまう。それは「平時」であれば顕在化もせず、問われることもなかった類のものだが、「非常時」は、色々なことを露わにしてしまう。
  • 「平気じゃないかもしれない」から「東京には戻りたくない」し、岡山に避難した上でなお「九州のものか輸入もの」しか子供には食べさせないと、多少なりと名が知られた小説家が新聞で告白してしまったのだ。現在の東京にさえ生命の懸念から留まることができない彼女にとって(これは意地悪な指摘だとは思うが)、数千万の東日本の国民はすべて「危険とされる場所に住む人々」であり、「疎開は国が全面的に援助し、生活を保障」される必要があるのだ。そして、それは「誰にでも分かるはずのことができない」状態なのだ。
  • いまだに避難しない/する気がさらさらない、ぼくも含めた多くの日本人は「既に放射能の危険性を考えなくなった人」であり、「失業を理由に逃げられない人、人事が恐こわくて何もできない人」、何かに「制御」された、「主人すらいない奴隷」なのだ。
  • 「空気を読み、その空気を共にする仲間たちと作り上げた現実に囚とらわれた人々」と書く金原にとっては、もしかするとこのテキスト自体が、そうした現象への疑義、批判なのだろうか。意図的な空気破壊であり、誠実さの表明なのだろうか。
  • 福島に残ってる人は、家族の命より日銭が大事な人」とのたまうニワンゴの取締役と同じように、警鐘のつもりなのかもしれない。
  • あの強烈に悪夢的な出来事を経て、現在、原発原子力行政について積極的に発言している文学者や批評家、学者と呼ばれる人たちの一部は、政府や財界や電力会社を、自分たちとは無関係な、(戯画的なまでに)邪悪な「敵」として(しばしば飛躍した陰謀論も交えて)攻撃している。そして、金原のテキスト結論部のように、日本の社会とその(無慈悲な、人々を制御する)システムに憤り、極度の不信と悲嘆に沈んでいる。
  • すべてが、というわけではないけれど、彼彼女達の言葉の大半はとても虚無的で、上ずっている。眼に触れるたびに、それらにこそ、暗澹たる気持ちにさせられる。震災以前に、彼彼女たちがその存在を稀有なものだと認知される根拠だった理性や知性は、どこに消え去ってしまったのか。苛立ちと恐怖から、ヒステリーを起こした子供のように取り乱して「巨悪」を罵り、また、安易に、まるで他人ごとのように戦後日本や近代社会を否定し、勝手に絶望したあげく、あまつさえ「反文明」を唱え始めたりする。そんなバカげたナイーブさには白けた感情しか湧いてこない。特に、大学の教員でもある人たちが終末論にも近い投げやりな暴言をネットで書いていたりするのを見ると、二の句が告げなくなってしまう。
  • 「騙されていた!」「許せない!」とただ絶叫しても、夢が醒めたりはしない。津波で破壊された土地に残された莫大な瓦礫や、広く国土に降り注いだ核分裂生成物が消え失せることもない。日本の社会は、大きな財政危機を抱えながら、これから先も長く長く現実として目の前に存在し続ける震災および核事故の影響に対処し続けなくてはならないし、核施設を管理していかなければならない。
  • 致命的な危機管理能力不全を露した原子力行政や、電力会社のお粗末な安全意識を批判すること、事故処理の責任逃れの為に情報の開示を渋り、サボタージュを繰り返し、あげく、相変わらず政争に明け暮れる政府機関に強く是正を求めるのも当然必要なことだけれど、それにしても、いま語られるべきなのは状況を前進させるための具体的な提言や行動だ。立派な「インテリ」(嫌味で言っている)が、わざわざ公のメディアで自らの属する社会そのものを否定し、情緒的に「嘆いて」いるだけとは、なんとも無残なことだと思う。彼彼女たちの放つ呪詛や怨嗟は、読み手を確実に蝕んでゆく。
  • 人の口に蓋をする権利はないし、誰が何を言おうと自由だが、そのような言葉に価値を認めたくはない。これから、言葉を扱う人間は、不正確さや不確実性、欺瞞、見当違いな部分を含むことがあっても、震災直後に村上龍がニューヨーク・タイムズ紙上で表明したように、希望について語るべきなのだ。安易な、偽物の言葉やイメージは無力で、悲惨なまでに滑稽だが、それでも尚、嘆きや絶望ではなく、希望を見出す言葉を探すべきなのだ。
  • 少なくとも、ぼくはそう信じている。