Unter Kontrolle / アンダー・コントロール


■ 映画『アンダー・コントロール』公式サイト




  • 「見よ、原子炉の壮大な美しさ!」「これは反原発サン、怒るわけだ」
  • 渋谷から宮益坂を上って、少し歩いたところにある狭い映画館の一階、壁に貼りつけられた週刊誌のレビューが、冒頭でそんなふうに茶化していた。
  • 今月11日を迎えると、3月の東日本大震災から早くも9ヶ月が経過する。震災に付随して起きたあの福島の出来事はいま現在も「収束」とはほど遠いが、春先のカオティックな様相から比べれば、プラント全体の状態はどうにか沈静化、安定化してきている。
  • それに伴って、原子力発電と、そこに付随する思想的/経済的/政治的な諸問題の是非を巡る人々の対立は事故以前より遥かに先鋭化し、セクト化の様相を強めている。
  • 上記の短い評を書いたライターは、発表媒体にあわせたポジション・トークとして、いわゆる反原発派の一部がこの映画に強い不満を示したと揶揄的に紹介しているわけだが、実際に作品を観ると、文体はともかく、指摘そのものは正鵠を射ているという印象を受けた。
  • ドイツの原子力発電所ドキュメント「Unter Kontrolle / アンダー・コントロールは日本での震災が起きる前に完成した映画だ。公開されている日本版予告編は説明過剰なうえ、編集の恣意性によって実際の作品が持つトーンとはかなり異なっているので、冒頭にリンクしたドイツ語版を観る方が、正確に全体の雰囲気を理解することができる。
  • 全編を通して、作品は奇妙な静けさに満ちている。デジタルではなく、35mmフィルムのシネマスコープサイズ、入念に構図が調整されたシンメトリィな長回しで撮影される原子力発電というシステム」の姿は、淡々と複雑なプラントの説明をする技術者たちのドイツ語の響きも手伝って、しばしば強烈な眠気が観者を襲う。きわめて処理の厄介な核廃棄物保管の実態や、被曝を伴う廃炉原発の解体風景を描写していても、映像はあくまで俯瞰的で、距離を保っている。
  • 「告発的ではなく瞑想的」映画について、ドイツのFAZ紙記者はそう表現していた。
  • 「アンダーコントロール」に登場するのは、「邪悪な核施設」でも「狂気の核マフィア」でもない。監督のザッテルは、「あまりにもイデオロギーに満ちたテーマ」(FAZ紙記者)である原子力発電を、かつては人々を強く魅了した先端技術、だがいまや(少なくともドイツにおいては)「斜陽産業」と化した存在として映し出し、業界に関わる人々や規制機関、発電所「ありのまま」を描くことで、非常に特異な「記録映画」を撮り上げることに成功している。
  • (同じく「原子力発電」をテーマにした映画では、デンマークのコンセプチュアル・アーティスト、マイケル・マドセンが監督した「100,000年後の安全/Into Eternity 」が日本でも公開されているが、音楽、構成、映像、エフェクトなど、全体の仕上げはそちらの方が遥かにテクニカルで、スタイリッシュだ。比べると、アンダー・コントロールはより通常のドキュメントに近いといえる。ちなみに、当blogの過去エントリでも「100,000年後の安全」について取り上げている)
  • 以上の映画的美点の全てに対して「反原発サン」は「怒る」のだ。
  • 作品の「瞑想的」視点そのものが、かれ/彼女たちには許しがたい。原子力発電などという「断罪されるべき」存在を扱っているにも関わらず、声高らかな怒りや糾弾がなく、人類を破滅させる「核」や「放射能」への激しい嫌悪や恐れも感じられないからだ。
  • それらに対しては、「公平」であったり「客観的」であることは許されない。力の限り叫ばなければいけないのだ。間違っても監督がそんなものに感心したり、美的興味を示したりしてはならない。「今年のベルリン映画祭でもっとも魅惑的な未知との遭遇(ターゲスシュピーゲル)とか「狼狽するほど甘美な映像体験」(ポータガム・キノ)を与えるような映像に仕上げるなど、問題外だ。
  • ダメ、ゼッタイ、ニュークリアー!以外は認められないのだ。
  • 「3.11以降、安全を語ることは野蛮である」知人に、そう表明する美術作家がいる。かれの感覚からすれば、核エネルギーを「Unter Kontrolle=制御下=安全」なものとして管理できると確信する人々を批判も弾劾しないこの映画は、ひどく「野蛮」だろう。

神殿としての原子力発電所

  • それにしても、だ。
  • 不謹慎さに躊躇しないならば、あれほどの「事故」が起きたあとだからこそ、核エネルギーを直接的な大破壊に用いるのではなく、「Unter Kontrolle=制御下におく」ことで人類に奉仕させようと試みた原子力発電所という無謀な存在は、暴走した人間の欲望という点において非常に興味深く、危険な好奇心を呼び起こさせる。
  • 「私たちは原発を嫌悪しながらも、原発を求めてきた。だからこれだけの事態に至った」
  • 日本語版のパンフレットで「フクシマ論」の開沼博はそう書いていたが、核という超越的な力を「制御」したいという欲動は、破壊のためにその力を解放しようとする行いより遥かに大それており、宗教的な意志さえ感じさせる。
  • 映画の宣伝文などで、原発「いまや信者を失った教会」であるとか「現代の大聖堂」などと形容されるのは、発電所の建造物が「壮大な美しさ」を持つ大伽藍だからというわけではない。単にオブジェクトとして観察しても(日本の発電所には採用されていないが)あの象徴的な通風冷却塔をはじめとして、確かに巨大プラントが持つ畏怖の気配や機能美をすべて保持してはいるのだが、そうした外観の要素はなんら本質的なものと関係しない。
  • 原発が信仰にまつわる存在である理由は その隠された深奥に核燃料というヒトの領域を超えた力を持つ物質、プロメテウスの火を収めた神殿であるからに他ならない。
  • 神殿の奥で起動という儀式が行われ、幾重もの遮蔽材で覆われた原子炉内で核の「火」が焚かれると、炉の水底には神秘的なチェレンコフの光*1が輝き、連鎖してゆく原子核の分裂が途方も無いエネルギーを生み出す。
  • 「火」は内に秘められていた数多の核放射線を解き放ち、もし直に相対してしまえば「ただちに」人間の肉体を滅ぼしてしまう。誰にもその「火」を消すことはできない。次に呼び覚ます時が来るまで、封印、すなわち「Unter Kontrolle(=制御)」しておくことしかできないのだ。
  • 来日時の講演で、ザッテルは「私の意図としては、いかにこのテクノロジーが「見えない」ものかを描いたつもりです」と述べていたが、まさに原発は、見えてはいけないもの、隠されるべき神聖な宝物に関わる技術なのだ。かれの沈黙に貫かれた映像は、そんな秘められた内実を精密に映し出してもいる。

*1:核崩壊によって発生するβ線が水中で光速を超えたときに放射される。核反応の停止した使用済み燃料プールが青い光で満たされているのもこの現象に由来する