今村祈履の魅力と「SCOPE」の完成度は無関係

 
最近、性犯罪の記事がmixiニュースとかに並ぶと、


「性犯罪者は全部死刑にするか去勢しろ!」


みたいな攻撃的トーンを全面にした日記がダーッと書かれてるのが目につく。
それ以外の犯罪に関しては、死刑制度賛成か反対かで、たいていは争いになっている。


「無自覚なファシスト!国家の怖さを知らない!ムギ−!」とか
「うるせーキモサヨなプロ市民は身内を殺されてから反対しろ!」とか


こんな風に、mixi内でだけ政治的にアクティブなmixi市民(適当)による、既視感たっぷりの退屈な煽り合いが飽きもせず繰り返されていたりする。
けれど、こと性犯罪に関してだけは、もう、死ねとかチョン切れとか何を言ってもオッケーという雰囲気で統一されてる感がある、と思う。ふだん過剰なほどミソジニー色が強い2chニュー速とかでさえ、わりと「もう性犯罪はみんな去勢でいんじゃね?社会的に抹殺しろ」みたいなレスが多い。

死ね死ねと叫ぶ人たちの容赦の無さ、取り付く島も無さは、それだけ性犯罪というものが人の尊厳を根本から侵犯する暴力であることを示す一例、だろう。
けれども、当たり前だが、性犯罪者をすべて死刑にすることも、去勢する事も、まともな近代国家である現在のニッポンでは絶対にあり得ず、今後もあり得ない。
刑期を終えた彼彼女ら性犯罪を犯した者たちがいかに更正し、それを社会がどう受け入れていくかが、身も蓋もない実際的な問題として、身も蓋もなく存在し続けるのだ。



五月終わりのとある日、渋谷のアップリンクで観た卜部敦史監督の映画「SCOPE」は、そんなシビアな問題を材にとった前代未聞の作品だった。


映画「scope 」予告編




※ 以下、けっこうなネタバレ含むため(というか、予告編が相当にネタバレだが)、未見の方は注意



その日、午後から「ビルマVJ」も観る予定にしていたぼくと後輩の二人は、専門学校の空き教室みたいな設備でおなじみ(?)のアップリンクで、まばらに集まった酔狂な他の観客たちと共に「SCOPE」を観た。監督や出演者たちの舞台挨拶を眺めた。
建物の出入り口で、観客を見送るかれらをうしろにして、衝撃と共にイメージフォーラムの方へと移動する最中、ぼくたちの口蓋はむずむずし、頬はひきつって、矢継ぎ早に何かを言いたいのだがうまく言葉が出てこない、という状態が少しのあいだ続いた。口パクパク。金魚みたいに。テンション上がりすぎて、そうなる時って、ないですか?


「・・・・・・・・・・なあ?」
とぼくは言った。
「・・・・・・・・・・・あ〜」
と後輩は答えた。
「おもしろ・・・・・かったな、おれは、ある意味」
とぼくは言った
「おれ、一人じゃたえらんなかったわ、正直なとこ」
と後輩は答えた。


そして、二人で同時に、あへふはひいふへへ、、、と、妙な音節をともなった気持ち悪い苦笑をはじけ散らせた。
次いで、ダダダと、「SCOPE」についての感想が口をついて、出た。噴出した。



前振りがくどくなったが、映画の内容について書こう。そして、いきなり結論から入ろう。
映画「SCOPE」は、取り扱い危険な、重い、普通は忌避されるようなテーマを取り上げた志は貴重で、賞賛に値するけれど、単に映画としての評価を書くならば、とてもとても、とっても「残念」なものだった、としか表しようがない。
容赦なく出来不出来を指摘する人なら、一言、「悲惨」と失笑するんじゃないだろうか。
いま(6月9日現在)「SCOPE」は映画関連のメディアでちょっとした話題になっているようで、それに煽られて観に行く予定にしている人は、たぶん、エエーーっていう感じに、開いた口が塞がらなくなるんじゃないだろうか。リンクを張った予告編とでさえ、全体の印象とは大違いである。
あまりこういう意欲的なインディ映画を貶したくはないのだけれども、ちょっとこれは、期待を裏切る意味でかなり強烈なインパクトがあった作品だったから、ぼくたちが何故「あへふはひいふへへ、、」な状態になってしまったのか、理由を、思いつく限り挙げてみよう。

  1. ほぼ全キャストに共通する、あまりにあんまりな演技
  2. 脅威の低予算(30万程度だとのこと)に起因すると思われる、録音、特殊メイク、セットなどのチープさ、不自然さ
  3. カット割りの雑さと、異様に既視感たっぷりな演出のありがちさ、稚拙さ
  4. きわどいテーマを深い物語に化けさせたとは言い難い、脚本のご都合主義と安直さ


わ、ほんとに思いつく限りを挙げてみたら、なんだか全否定みたいになってしまったな。
でも、やむを得まい。嘘を書いてもしかたがない。



アップリンクから国連大学に近いマックに移動して、ビルマVJ待ちしつつチーズバーガなど貪って後輩と作品に関する疑問点を羅列していたとき、


「うまく言い表しづらいけど、あの映画の、あの雰囲気って、既視感あるよね。なんだろう?」


という疑問が浮かんだが、そのときぼくが思い浮かべたのは、映像の専門学校に行っていた友達の卒業制作だった。友達も、友達の同級生も、いかにも予算のないオルタナティブ、、、と言った趣の映を撮っていたが、「SCOPE」の全体を覆い、終始漂い続けていた強いアマチュア臭さは、彼らに近いものとして捉えると、一番しっくりと来た。
「それもあるけど」と頷いた後輩は、


「俺はなんか、やっつけで作った火サスみたいな演出に見えた」


と指摘していた。これにも、ぼくは膝を打った。
やっつけ火サスという観点で見ると、警視庁がPRのために作っている犯罪事例の再現ビデオ(バラエティにもよくあるやつ)のような趣もあったかもしれない。

監督の卜部氏を経歴から見る限り、昨日きょう映像を始めた方ではないみたいだが、上記1ー4のように、完成した映画は挙げ出せばキリがないほど未熟さばかりが目立った。なにしろまず冒頭、政府職員二人の、出所する主人公アツオに関する会話が始まったとたんに、もう、ぼくは電撃で打たれたようになってしまったのだ。


その驚異的な不自然さに


「不自然」。それ以外、言い表しようがない。
定型的な言葉が棒読みされる台詞、ぎこちない間、最終調整をしたのか疑いたくなる、耳に痛い音声のボリューム…
「不自然」は劇の最後の最後まで続いて、ぼくらの口を終始開き放しにさせた。
大根役者という形容があるが、様々なプロの技でカバーされずに画面へと定着された拙い芝居の応酬というものは、ああ、こんなにもシュールなのか、と、ぼくは一種、感動さえ覚えていた(特に主人公の篤夫が就職する工場の工場長がモノ凄い。不条理ささえ覚えるほどヘン)

劇中、どうにか演技らしい演技をしていたと言えそうなのは、主人公の篤夫、篤夫への嫉妬から最後は凪を殺す善三、善三の父、ぐらいのものだ。
しかも、この三人も「演技」をしていた、というだけで、それが特別上質なものであったということでは全く無かった(善三の父は一番まともだったが)。
名前が出ているキャストは10人しかいないが、彼らは「素人」ではないにも関わらず、「SCOPE」劇中での浮き上がった挙動はひどく学芸会めいていた。
たぶん彼らは、違う監督の下で、違う脚本家や違う映像屋やカメラマンと仕事をすればもう少し違った顔を見せるのだろう。
微妙なジャニタレだって一発屋のグラビアアイドルだって、色々なドラマで壊滅的な演技をしているが、まわりのスタッフや機材には資金が投じられ、最後には、致命的な破綻を防いでいる。


「SCOPE」は、2,3,4の不備が1をさらに際立たせていた。
役者の地力が、ナマのままに剥き出しになって、恥ずかしさに目を覆いたくなるような雰囲気が画面を支配していた


もしかすると、演技への視点がぼくたちの狭い主観にすぎず、偏っており、不当だという批判があるかもしれない。
確かに、主観だ。加えて、ぼくは普段、それほど映画を観ない。


もしかしたら、あれは優れた演技なのかもしれない。いや、きっと、そうに違いない…



次に、「1を際立たせた、2,3,4の不備」ということについて、個別に検証してみたい。
まず、もっとも作品の本質からは遠い2から。
こういう観点からの不満は、そもそもが低予算のインディ映画に対しムチャな要求であったり、重箱的で生産性の無い突っ込みになりがちなのだが、とはいえ、目に余る、という部分は単純に指摘されるべきだろう。
例えば、善三が自宅にいる凪を襲って強引に関係を持とうとするシーンと、善三を殴り倒して逃げた凪が、工場で篤夫に遭遇するシーン。
熱したフライパンが直撃した善三の、顔面半分を覆う稚拙な火傷メイクは、「高熱の火炎で炭化した死体」という具合に大げさで、凪が篤夫に身体を許す際、(母親からの虐待を示唆させる)告白として背中の傷跡を露わにするが、これがまた、「傷」を作ってペタッと貼り付けたそのまんま、と書けば分かりやすいだろうか、首をひねらざるを得ない演出と共に、どうにも興ざめする「作り物」だった。
物語のクライマックスと言える、凪が逆上した善三に刺殺されるシーンにおける血しぶきの効果にも同じことが指摘できるし、後から被せた効果音の処理のまずさなど、全編にわたって「制作費30万」(本当かは知らない。さすがに信じ難いが)という軋みがヒシヒシと伝わってくる。



だが、2などは、やはり結局、些末と言えば些末なのだ。
3と4さえ、つまり脚本と演出とカット割りさえ非凡なものであったなら(そりゃ当然だろうという話だとは思うが)作品の印象は全く変わったものになっていた。
予算の無さも、俳優の演技のまずさも、ときには脚本の安直さもどうにか強引に演出し、最善のカットを割って映画を救うのが「監督力」というものだろう。
だが、残念ながら「SCOPE」にそれらを見いだすことは困難だ。というか、無理だ。
脚本はテーマを充分に消化できたとは到底いえず、贖罪と許しを記号的に表しただけに見えた安易な物語は、とにかく浅かった。
エピソードが展開する画面には(悪い意味での)強い定型性と(ここでも)記号性を持ったシーンや演出が頻出していた。


「(悪い意味での)強い定型性」「記号性」


要するに「恥ずかしいぐらい素朴にベタ」ということだが、それはぼくたちを笑撃によって身動き出来なくさせた。
やっつけ火サスだの卒業制作だの再現ドラマのそのまた再現だのと言った、負の既視感を覚えさせた。
「ベタで何が悪いのか?」と問う向きもあるだろう。確かに、定型性があること自体は批判する要因にならない。あえて記号的な表現を選択することもある。
しかし、効果がないのなら、ばかりか、手垢まみれの展開を安易に使うことで映画の質が低下しているのなら、当然、ダメを出されることになる。



演出面での「SCOPE」における「(悪い意味での)強い定型性」に関しては、とにかくもう、最初から最後まで何もかもが気になるし、挙げたところで文字では伝わりづらいので、すべてを詳述はしない。
だが、すぐ上で2に言及した箇所も含めたいくつかのシーンは、ここでも特に目立つ。



「凪が篤夫に会うために鏡にむかって化粧をしている→口紅塗るのを失敗」
「化粧をして楽しげに弁当を作っている凪に背後から善三が迫ってくる→それが鏡に映っているが凪は気づかない」
「凪が、卵焼きを作っていたフライパンでうまい具合に反撃→顔面直撃→のたうちまわる善三」
「背中を向けて傷を露出させ(虐待を)告白する凪→それを後ろからそっと抱く篤夫」



教科書的と言ったら意味が違ってしまう。やっぱり「ベタ」なのだ。記号なのだ。
凪が善三に刺殺されるシーンも、実に、こう、「ここでそれをやっちゃうかあ?」と、呆気にとられる。


島からの出航前、二人で海を眺めているところで突如、凪が倒れる→飛び散る鮮血→背後には凶器を持った善三。
直後に善三も頸部を切り裂いて自殺→またも飛び散る鮮血→一枚の写真(凪と漁師時代の善三が笑顔で写っている)が目に入る→唖然とそれらを眺める篤夫


襲撃を示唆するものとして、凶器を砥石で研ぐ善三、鏡を突き刺して破壊する善三(予告編でも映っている)のシーンも挿入されるが、これがまたいかにもで、とにかくこの素直さ、安直さには参った。ある意味、凄いの一言である。
主人公が集団強姦をする過去を再現した映のチープさや、ラストシーンで篤夫が凪の灰になった骨を海に撒くところのベタベタな臭さなんかも大変なものだが、繰り返すが、全部書いていたのではキリがないので、この辺りで止めておく。



ようやく最後まで来た。脚本に関してだ。なんかどんどんダメ出ししていくと自分も疲れてくるのだが、まだ終わることはできない。

「SCOPE」は有名俳優のファン向けお披露目映画や「とにかく格好良く悪人をブチ殺せばOK!」という偏差値の低いエクストリームなアクション映画ではないわけだから、「性犯罪者を社会がどう受け入れるか」「贖罪や許しとは何か?」という困難な主題を表すその物語には、相応の構成と仕掛けが必要とされる。
だが、その面からしても、この作品には首をひねらざるを得ない箇所ばかりなのだ。

劇中の世界は性犯罪者監視法=SCOPE法が施行されているという設定で、過去に集団強姦事件を起こして服役した篤夫は、片手にその証となる数字を刻み込まれている他、政府によるホルモン剤(?)投薬による体質改変、行動の監視及び被害者への居場所通知、Webで犯歴を公開されるなどの措置を科されている。
犯歴と法による世間からの疎外が出所後の彼らを職から遠ざけ、親兄弟からも切り離されていくという序盤の展開は、うまく表現出来ているかはともかく、納得できる。
篤夫を庇う工場長が元犯罪者であるとか、犯歴がバレて同僚になじられるとか、工場が得意先から仕事を切られ、嫌がらせを受けるとか、その類の描写は、何度も何度も言うが演出として稚拙すぎるという欠点があるにせよ、いいと思う。


だが篤夫に恋をする凪が聾唖という設定はどうなんだろうか?


これを言い出すと物語の半分を根本から否定するようだが、ぼくには凪が聾唖でなければならない理由がさっぱり分からなかった。
片親で、さらには虐待を受けているだなんて設定も不必要と思えた。
ハンディキャップを抱えた女と元性犯罪者の恋愛という話になってしまうと、特異性ばかりがフォーカスされてしまって、主題がぼやけてしまう。
仰々しい悲劇の演出も、スペクタクルが強調されすぎることで、同じ問題を生む。
しかも篤夫がなぜ強姦に走ったのかがまるで分からず、出所後の意識の展開が(強姦の葛藤があるにせよ無いにせよ、被害者は自殺しているのに)充分に描かれないので、凪が殺されたあと、強姦した後輩の父親に会いに行って謝罪するシーンも、想い人の喪失によって痛みに気づき人間性に目覚めた、という記号的な説明にしか感じられず、なんだかイマイチ説得力を欠き、納得できないのだ。
いや演技が…ってのは非常に大きいけれど、それにしても最後まで篤夫は人形のようで不気味である。元犯罪者としての血肉が通っていない。
(あと、投薬の設定って、最初は凪が手をふれただけで嘔吐するほどだったのに、途中から忘れられてないか?それとも、愛の奇跡なのか?)
唯一、ぼくがこれはこれでアリだと感じたのは、嫌がる娘を警察に出頭させたことが自殺の引き金ではないかと、自らの「罪」に苛まれる被害者の父親がこう言うところだ。


「私は君の大切な人が死んだと聞いて、嬉しかった(大意)」
「私は君を許さないが、君はこれからも罪の意識と喪失を抱え、差別や偏見に苦しみながら生き延びろ(大意)」


「死んでしまえ」というのは簡単だし、とても説得的だが、現実の社会では、「生きろ」という罰の与え方、贖罪の方法こそがリアルに模索されねばならない。
だから、篤夫はごく普通の女とごく普通にまた関係を結び、犯歴に気づいた女や周囲から無惨に拒否される、という人格否定をこそ受けねばならなかったのではないか。
恋人の喪失に劇的さを加えたければ、その恋人自体が暴漢に襲われるという展開でもいい(出所後の元受刑者への襲撃は実際に存在する)。
監督は最後に救いを持たせたかったのかもしれないが、やはりぼくには、この物語は過剰にロマンチックすぎるように思え、そのウットリ感がひくひくと鼻についた。



ようやく終わりまで辿り着いた!
途中から、なんで自分がここまで熱心に「SCOPE」についてアレコレと突っ込んでいるのかよく分からなくなってきたが、観る前の期待と、実物のギャップ・衝撃があまりに大きかったというのはある。
「久々に凄そうなインディ映画が?」と思っていたら猛烈にズッコケたというか(長々書いてきたように、違う意味でスゴかったけど…)。
その落差が、ぼくにこういうネチネチしたレビューのようなものを書かせたのだ。
我ながらよくやるよ、という感じ。


ただ、本当に、こういうギリギリのテーマを取り上げたことそのものは意欲的な試みだと思うし、なんだかもう、既に、卜部監督の次作が気になってしまいさえ、しているのだ(気になる、の方向性は?って話だがw


おまけ的な追記


見出しについて一切の説明していないことをいま思い出した。
聾唖であり、かつ母親に虐待され、かつまた物語の最後には横恋慕(死語)したアホ男に(予想通り)容赦なく殺されてしまうという散々な役回りであるヒロインの凪を演じた今村祈履についてワンセンテンスも書いていなかった。
これまでのネチネチした突っ込みをすべてひっくり返しかねないが、実は、すべてを放り出した上での適当な感想を言ってしまおう。
ぼくは、


今村祈履が半端無く可愛かったからもう物語内容とか別にどーでもいいや!


と思わなくもないんだな。別の観点からすると。別の観点て、まあ、萌えですけど。
いやもちろん、コレあくまで冗談だけど。いや、今村祈履が可愛いというのは本当だけど。
このテキストを読んで、まかり間違ってこれから観に行こうかな(7月までやってるそうです)なんて思ってる人には、ぼく個人からは、今村祈履の凪を観るだけでも、特定の人たちは、ひょっとしたらすっごいニマニマできるので、いいかもよ?って薦めておきます。あくまで主観です。後輩は「別に普通」の一言で終わらせていたから。
え?お前、演技の箇所でまったく今村嬢に触れてねえじゃん誉めてねえじゃん、って?
ああ、そうです。そうです。だって、演技なのか?っていう疑問がありますから、この作品での今村嬢の可愛さは。
聾唖の少女を演じるために、必死でなんかバタバタやってるんですけど、でそのバタバタがとにかく可愛いんですけど、でも、これ、聾唖の人かい?っていう。
罰ゲームで、口きいちゃダメ、みたいにされてる人にしか見えないんですよね。きちんと役をこなせてない。
んで、しかもぼくは物語的には凪が聾唖っていう設定要素はマイナスと判断してますので…


でも可愛い。


ぼくの主観上は、これ間違いないです。ニマニマできる人は、萌え的な意味でぜったい満足できます。
ぼくは卜部監督の次作以上に、今村祈履に今後注目することでしょう。ええ。


……ま、おまけなんで、あまり真面目に読まないようにw