亡命者たちについてのメモ


2010年3月の末、一人の若いキューバ人ボクサーがアメリカ合衆国に亡命した。
かれの名前はヨルデニス・ウガス・エルナンデス/Yordenis Ugás Hernándezといった。
ウガスは、北京五輪の銅メダリストだった。そして、二年前に中国で戦ったボクシング・ナショナルチーム代表メンバーから初の亡命者となった。 


「島に残っているボクサーの中で、いま、もっとも才能と力がある」


んな風に賞賛されてきた青年は、「裏切り者」になることを選んだ。
200万*1の同胞の一部となることを選んだ。
同士であり友人である、少なくない数のチームメイトと同じ選択をした。
抑圧的で貧しい「革命」社会から離脱することを決断した。
そして、資本主義の汚濁にまみれ、プロのリングで栄光を掴むことを望んだ。


ガスは1986年7月、キューバ東端の港湾都市であるサンティアゴ・デ・クーバに生まれた。
幼いころから既にボクシングの才能は傑出していたようで、2003年にU17の世界王者となったのを皮切りに(Cadet World Champion)、若干19歳にしてナショナルチームのライト級代表に選ばれている。
2005年の世界選手権、2007年のパンアメリカン大会はいずれも金メダルを獲得。
北京五輪でもあっさりと選考試合を突破し、ライト級でキューバの同級三連覇を目論んだが、トーナメント中に調子を落として銅メダルに終わっている。
翌年にはライトウェルターへと階級を上げ、国内選手権の決勝で同じく北京五輪の銅メダリストであるロニエル・イグレシアスを破って優勝し、ライト級と併せて通算五度目となる国内王者の座に就いた。
目の良さと巧みなガード、卓越したカウンターブローなどは群を抜いて優れており、間違いなく世界のトップアマと言えるだろう。


かし2009年秋にイタリア・ミラノで行われた世界選手権に、ウガスは代表選出されなかった。
それが亡命のきっかけとなったかは分からないが、ウガスは以前、「Boxers and Ballerinas」という米国のドキュメント映画にメイン・キャストの一人として登場しており、海外でプロとして戦うことと、それに伴なう莫大な報酬に興味を示していた。かれの友人たちも、国内での貧困と海外での成功について、口々に希望を述べている。


「ここでの待遇が素晴らしいというなら、なんだってスポーツ選手が国を離れるんだ?金だよ。家族に送金するんだ」
「優秀なアスリートは海外で大金を稼ぐ。ぼくはバレエをやっている。上手くなって、ヨーロッパに行きたいんだ」
「ウガスはキューバで一番だ!国際的な場で戦うべきだと思っている」


亡命問題を露骨に臭わせるこの作品は、よくあのキューバ政府が撮影を許可した*2ものだと思わされる代物だったが、そこでウガスは革命社会の成員としては、禁断ともいえる台詞を何度も口走っている。


「成功したい。ママにテレビを買ってあげたい」
「有名になりたいし、可愛いガールフレンドが欲しい」
「百万ドルか…」


(たとえ映画がキューバで上映されないという確約があったとしても)これは非常に危険な、考えなしの行為だと思えたが、かれがマークされることは無く、以後、世界選手権、北京五輪とキャリアを重ね、自身の価値を高めることに成功している。
この一連の事実を踏まえると、その難易度の実際はともかくとして、オリンピックでのメダルという目標を達成したウガスが亡命を企てたのは当然の成り行きだったと言えるだろう。


「Boxers and Ballerinas」





Yordenis Ugas Documental - Part 1/3





Yordenis Ugas Documental - Part 2/3





Yordenis Ugas Documental - Part 3/3





ガスのデビュー戦は当初6月4日、ESPNが放映するFriday night fightが予定されていたが、直前になってキャンセルされてしまった。

Cuban amateur standout Yordenis Ugas to debut on Friday!
http://www.eastsideboxing.com/forum/showthread.php?p=7012877


今後、まだ次の日取りは決定していないが、恐らくは同じ番組の枠になると思われる(同番組はこれまで多くの亡命キューバ人をピックアップしているのだ)。


ガスがプロで通用するか、というのは当然のことながら未知数だが、その可能性はとても高いと思える。少なくとも、ぼく成功すると確信している。
以下の五輪やワールドカップの映像を観れば分かることだが、ウガスは基本的な能力が高いレベルにあることはもちろん、アマ特有の手打ちやバタつくフットワークの癖が殆ど無い。その攻防兼備の戦闘様式は既におおよそ完成されており、プロルールにも問題なく対応できるはずだ。




【2008 Olympics 60kg Lightweight Division between Yordenis Ugas (Cuba) vs. Domenico Valentino(Italy)】
http://www.dailymotion.com/video/xdbz4i_yordenis-ugas-cuba-vs-domenico-vale_sport


く堅固なガードと、そこからジャブでもフックでもスムースに出る左のリードは速く、よく伸びる。最大の武器であるモーションの無い右ストレートは、スウェーして打つカウンターや逆リードとして抜群のタイミングを持っており、柔らかく安定したスタンスと常に軸のブレないバランスの良さ、フットワークの軽快さも特筆すべきレベルにある。パワーのある相手に対し受けにまわったときの身体の弱さ、ダウン経験が比較的多いことから分かる顎の脆さは大きな懸念材料であり、やや単調な攻めの引き出しやボディからのコンビネーションに幅が欲しいという改善面もいくつか存在するが、いずれも修正可能なレベルだ。デビュー戦の早期決定が待たれる。

けして例外ではない


くにとってウガスの亡命は大きな吉報だったが、亡命そのものは珍しいことではなかった。
51年前の革命から現在にいたるまで、キューバ人の国外亡命はありふれており、日常茶飯事だった。スポーツ選手の亡命も、それほど例外的なことではなかった。
海外にいくつもプロ・リーグが存在するバレーボールや野球は国際大会の度に選手が亡命し、比べると数は少ないが、ボクサーも同じように逃亡し続けていた。
もっとも古い例は、革命が起きた直後にメキシコやスペインなどに渡ったホセ・ナポレスシュガー・ラモスホセ・レグラたちだった。かれらはいずれもプロで世界タイトルを獲得し、ナポレスはオールタイムのウェルター級でベストにさえ挙げられるほどの名選手となった。


はいえ1980年代後半に東西冷戦が終結するまで、西側に亡命する代表クラスのボクサー数は僅かなものだった。
ミュンヘンモントリオール、モスクワと三連覇し、アリとの対戦が興味をもって語られていた70年代アマヘビーの覇者ティオフィロ・ステベンソンや、ステベンソンの後継者にして、バルセロナからシドニーの三連覇と六度の世界選手権制覇を果たし、最盛期のマイク・タイソンを凌ぐとさえ言われたフェリックス・サボンは、いずれも「革命」への忠誠を口にして西側からの誘いを断っていた。


れが一気に加速するのはソ連が完全に解体し、同連邦の援助に依存していたキューバ経済が破綻した1993年ころからだ。ソ連消滅から1997年までに、バルセロナアトランタ五輪で大成功を収めたナショナル・チームから何人もの有力選手が亡命した。代表者は以下の数人で、ゴメスはドイツへ、他三人はアメリカへと渡っている。


バルセロナ五輪バンタム級金メダルのホエル・カサマヨル
75キロ以下のジュニア世界王者、95年のライトヘビー級キューバ王者フアン・カルロス・ゴメス
1993年世界選手権でライトヘビー級金メダルのラモン・ガルベイ
93、94年のライト級キューバ王者ディオベリス・ウルタド


ガルベイのようにキャリアが不発に終わった者もいたが、カサマヨル、ゴメス、ウルタドはそれぞれ世界王座を得ることに成功している。特にゴメスとカサマヨルは階級を代表するボクサーとして一時代を築き、いまも現役を続けている。


サマヨルたちが亡命した後の1990年代後半、キューバ政府は国内産業の一部資本主義化をおし進め、世紀末から新世紀の頭にかけて経済は好転を見せた。
それが理由なのかは分からないが、ゼロゼロ年代の半ばまで、選手の亡命は減少に転じていた。
次々に新しい、優秀な若手が出てきては、チームに勝利をもたらした。


が、「裏切り」は4年6ヶ月前から再び加速する。そして今やもう、留めることのできない大きな奔流にまでなって続いている。そのうねりのきっかけとなる事件は2006年の末に発生した。


れも押し迫った12月某日、パンアメリカン大会のためにベネズエラで遠征合宿を行っていたナショナル・チームから、ユリオルキス・ガンボアオドラニエル・ソリスヤン・バルテレミが逃亡して行方不明になったのだ。


誰もが、何が起きたのかを瞬時に理解した。


予想通り、三人は明けて翌年の一月後半、隣国コロンビアに姿を表して記者会見を行い、亡命してプロで戦う意志を明らかにした。


人はアテネ五輪の代表メンバーだった。
フライ級、ヘビー級、ライトフライ級のそれぞれで金メダルを獲得していた。加えて、数度の世界選手権でも好成績を残していた。
全員が(特にヘビー級のソリス)まさに正真正銘のエリート・アマであり、かれらの同時亡命は大きなインパクトを国内外に与えた。
数ヶ月後、三人はドイツのarenaboxpromotionと契約してプロデビューを果たした。
その衝撃はとてつもなく大きかった。決定的とも言えるほどだった。
それから以後、有力選手たちの亡命が途切れることなく続いたのだから。


ず三人のデビューから三ヵ月後の2007年7月、ブラジルはリオ・デ・ジャネイロで行われていたパンアメリカン大会の真っ最中に、ギジェルモ・リゴンドウエリスランディ・ララの二人が選手村から姿を消した。そして、またもarenaboxpromotionがウェブサイト上で二人との契約を発表した。
ララはウェルター級で2005年の世界選手権を制した若き俊英だった。
リゴンドウはシドニーアテネの五輪二連覇を含む無数のアマタイトルを獲得し、もっとも完成されたアマとも謳われるバンタム級の天才だった。
年末から春先の亡命劇からまだ日が浅いこともあって、この事件は大スキャンダルとなった。
二人の企みは成功せず、数日後、ララとリゴンドウは地元警察に拘束されキューバに身柄を送り返された。
arenaboxpromotionの代理人は、カストロがブラジル政府を脅迫した結果だと憤りを露にした。
カストロは逆に「金で選手を誘惑する、ヨーロッパやアメリカのマフィア」の暗躍を断固として非難した。


リスたち三人からララ+リゴンドウへと続いた騒動はカストロを激怒させた。
「限度を超えている」というコメントを発表し、チームに2007年のボクシング世界選手権をボイコットさせた。
しかし、それでも「裏切り」が減ることはなかった。

 
局、ララは2008年の5月に、リゴンドウは2009年の2月にそれぞれ再びアメリカへとと亡命を企て、今度は計画を成功させた。誰もかれらを制止できなかった。
リゴンドウの二度目の逃亡はユデル・ジョンソンヨルダニス・デスパイネユニエル・ドルティコスらを伴っていた。
ジョンソンとデスパイネアテネ五輪の代表だった。ライトウェルター級で銀メダル、ミドル級でベスト8という成績をそれぞれ残していた。
ドルティコスはワールドカップのメンバーに選ばれたことはあったが、まだまだ頼りなさの方が目立つライトヘビーの新鋭だった。


2007年から8年はさらにルイス・ガルシアマイク・ペレスアレクセイ・アコスタの三人もアイルランドに亡命し、プロ・デビューした。
三人はいずれもジュニア世界王座を獲得しており、非常に若かった。
ペレスは、さきのソリスがスーパーヘビーに階級を上げた後にヘビー級を担っていくはずだった新鋭で、ドルティコスと同じくワールドカップの代表メンバーだった。
ガルシアは北京五輪の最終選考でミドル級の代表から漏れていたが、選考試合では代表に選ばれたエミリオ・コレアを破っていた。
その結果に不満を覚えての出奔だった。アコスタも、最後までフライの代表候補に残っていた。


2009年7月には、既にアメリカへと亡命していたルイス・フランコがマイアミでの興行でデビューを果たした。
フランコアテネ五輪フェザー級代表で、ベスト8の成績を残していた。
北京五輪の代表にも内定していたが、直前になって「亡命計画への嫌疑」をかけられ、代表から外されていた。
憤ったフランコは代表チームを引退したあと、「本当に亡命することにしたんだ!」

 
ガスが亡命する直前の2月にも、イノセンテ・フィスルイス・オルティスらをはじめとした9人ものボクサーが大量亡命し、春までに半数がデビュー戦を行った。
フィスは2005年の世界選手権ライトウェルター級で銅メダルだった。オルティスはヘビー級で2005年のワールドカップ代表だった。二人とも、北京五輪の代表には選ばれていなかったし、今後、代表に選ばれる可能性も殆どなかった。残りのメンバーも状況は同じだった。


時点で、アテネ五輪の代表だった全階級11人のうち、ライト級のマリオ・キンデラン、スーパーヘビー級のミチェル・ロペス、ウェルター級のロレンゾ・アラゴン以外の全員が国を捨てて亡命していた。代表候補だった多くの若いボクサーも亡命していた。


当に驚くべきことだった。完全に異常事態だった。
カサマヨルやガルベイが亡命したとき、現在より遥かにキューバ経済は疲弊していた。
それでもまだ、かれらは代表の中において例外的な存在に止まっていた。
今や、例外的なのは国に残っている実力者たちだった。
五輪をはじめとした国際大会は自分の商品価値を高める為のものであり、仮に代表から外れた場合は、すぐにでも亡命を試みる。いささか踏み込みすぎだが、この頻度にはそんなルートが出来上がっているようにさえ思えてしまう。


51年間、キューバの外ではうっとり顔の社会主義者フィデル・カストロとその革命を褒めちぎり続けていた。
島の外へと亡命する多くのボクサーたちにとって「革命」はまったく賛美の対象ではなかった。振り捨てて一顧だにしなかった。
貧苦の大元である、忌まわしい悪弊みたいなものだった。
亡命から三年が経ち、既にプロで大成功を収めたユリオルキス・ガンボアはESPNのインタビューでこう語った。


「貧しさから、闇で金メダルを売らねばならなかった」
「娘の将来のことを考えると、私は決断する必要があった」


の多くの選手も経済的な側面を強調していた。
も革命など信じていなかった。ソ連が存在していた頃とは違っていた。
わずか160マイル先で、優れた才能が「ミリオンダラー」を生んでいるという事実は圧倒的なものだった(それは半分以上は誤解なのだが)。一方、160マイル手前で、同じ才能は新しいテレビを買うことさえできなかった。
その事実を前にして、空疎で抑圧的な理念は何の歯止めにもならず、意味を持たなかった。
単に、勇気と、家族への未練と、現実的な機会と未来への展望だけが問題だった。
アメリカが、資本主義が理想の王国だとお気楽に言うのは現実とかけ離れた虚妄だが、少なくとも、違う世界を求める才能にとっては遥かに自由な土地だった。


こ数年で、決断した者たちによって島の外における機会と展望は大きく広がった。
それを見て、別のかれらもまた「決断」する。島を去って行く。
その連鎖が完全に停止することは、もう、ないだろう。
どんな単位で進むか予測するのが困難とはいえ、この時計の針は、戻らない。


ぼくはただ、彼らの幸運を願いながら、見ているだけだ。
ひとりの傍観者として。

*1:1959年のキューバ革命以後、米国へと渡った亡命者の総数

*2:トレイラーを見ただけでも、政府の協力が無ければ撮影できない映像がある