雑感:【キューバ・アンダーグラウンド】
- 怒涛のように日々が過ぎてしまい(これいつも言ってる気がするが…)、五月が終わってしまった。
- 前回のエントリであまりにも急に告知した【キューバ・アンダーグラウンド】は、今さらではありますが、おかげさまで無事に終了しました。
- 思ったより(失礼!)来て下さった方の数が多く、そして当然、このようなイベントに集まる面々の多くはディープにキューバ文化へと関わった経験を持っていて、トークをした樋口さんとの質疑において、キューバと日本、二国間の文化的事象にまつわる非常に濃密な意見交換が成されていました。時間や字幕の関係もあって、各映像作品ごとに通しで観ることができなかったのは残念だったけれど、ある意味、こうしたやりとりを聞けたことが、ぼくにとっては一番収穫だったかもしれない。
- 樋口さんは「個々の作品についての、皆さんの感想を、アーティストにフィードバックしたい」と仰っていたが、全編を鑑賞できたものがほとんどなく、個別に詳細な感想を語るのは難しいと、少なくともぼくにはそう感じられた。
- だからこの場では、当日に作品が紹介されたキューバのアーティストたち全体から受けた印象と、いくつかの作品について、可能な限りの雑感を書くだけに留めておく。
「自由」が無い国の「自由」
- ある強固なイデオロギーと、固定された指導者のリーダーシップに基づいて国の運営指針が決まり、国民に他の選択権を認めないキューバは、現在の地球上でもっとも政治的な国のひとつだ。さまざまな内実の差異を問わなければ(いや勿論、そこは非常に重要な箇所なのだけれど)、朝鮮民主主義人民共和国と同じシステムで動いている国だと言ってもいい。賞賛すべきものは決まっており、批判すべきものも決まっている。公式な言葉と思考の選択可能性は、極めて限定的だ。
- そのような場所に留まりながら、ひとつの娯楽とは異なる「芸術」というものを志すとき、作家たちが国是となるイデオロギーを始めとした、自分たちを縛る「政治的なるもの」から自由を保つことは不可能といえる。
- 未だ懐かしの「社会主義リアリズム(それらのパロディでさえ遠い過去だ!)」的なるものが機能しているキューバでは、そのような国家から推奨される「芸術家」としての雛形を目指すにせよ、認められた範囲の中で批評精神を発揮するにせよ、選択そのものが政治的態度表明となるからだ。
- 「表現の自由」という言葉が持つ意味も、価値も、それが保証された(程度こそ違えど資本主義と民主主義の国家にもそうした側面はあるわけだが、さすがに同列に語ることはできない)国々とはまったく異なる重みを持っている。
- 今回のイベントで紹介されたアーティストたちの何人かは、ベネチア・ビエンナーレやドクメンタにも登場したことのある、90年代以降のキューバを代表するパフォーマンス・アート作家、タニア・ブルグエラ(Tania Bruguera)が2000年代にハバナの芸術大学内で主宰していたワークショップ「アルテ・コンドゥクタ」出身。
「sobre un vacio periodisco(報道活動の不在に関して)」
- 2007年初頭にハバナの文化人や学生たちのあいだで勃発した【灰の五年間】を巡るシリアスな論争*1を題材化し、上述したように国営放送のフォーマットをコピーして、「実際には報道など無かった事件」に関する「架空の報道番組」を創り上げたものなのだが、番組進行やロゴに始まり、関係者へのインタビューや(信じがたいことに)アナウンサーまで実際の担当者を起用するなど、コピーの精度も含めて内容は非常に質の高いものだったという。そして一部、「事実と異なる出来事」のインタビュー等が挿入されていたりするなど、「事実」や「真実」を脱臼させる仕掛けによって、作品にさらなる批評性を持たせようともしているのだという。
- 何しろ全部観ているわけではないので内容に関して踏み込んだことは述べられないが、題材となった「論争」は、共産党政権が過去に選択した文化政策の正当性を疑問視することにも繋がるデリケートなもので、そうした騒動をはじめ、都合の悪い出来事はすべて報道をシャットアウトする国家の「情報統制」を問う批評精神は価値あるものだろう(ただ、この極めて微妙な作品が存在を許されたという事実から、現在のキューバにおける「統制」が、北朝鮮や中国、アラブの独裁国家とはやや異なっている証左だと指摘することはできるかもしれない)。
- 【灰の五年間】で起きた弾圧の中でもっとも有名なのはエベルト・パディージャの「告白」事件*2だと思われるが、ぼくがその著作を敬愛するレイナルド・アレナスも、作品内容の「反革命」性、国外での出版を行うなどの「反革命」的活動、さらには同性愛者であったがゆえに政府から迫害され、あげく逮捕・投獄・思想的転向を強制されている。
- 2007年の論争は、その【灰の五年間】で文化人弾圧の中心を担ったルイス・パボン・タマヨやアルマンド・ケサーダが久しぶりに公のテレビ放送に出現して発言を行ったことに端を発するようだが、「架空の」報道番組中でもパボンはインタビューに応えていた。
- アレナスは回想録の中でパボンやケサーダについて以下のように描出している。
「中尉はフィデル・カストロの異端審問官組織の中で最も忌まわしい人間の一人で、ぼくたち作家をみんな迫害し、キューバ劇場を破壊した正真正銘の同性愛嫌いだった」
「もちろんぼくも、70年代にサトウキビ農場に行くことになった。黒幕的なルイス・パボン中尉をはじめ、既にUNEACを操っていた国家公安局の役人たちはぼくをピナル・デル・リオのマヌエル・サンギリー製糖工場へサトウキビ刈りに送り、その大旅行や<一千万トンの砂糖生産>を讃える本を書かせようとした」
- 「これが実際のパボンかァ…」
- 映像を観ながら、そんな風に思った。
- 事実の回想というより、なにか奇妙な幻想物語であるかのようなアレナスの告白録でしか知らなかった人物が実際に喋り、動いているさまを眺めるのは不思議な気分だった。
- 当たり前だがもうパボンは老いて弱々しく、かつて【パボン中尉】であり【フィデル・カストロの異端審問官組織の中で最も忌まわしい人間の一人】と評されたような厳しい雰囲気は欠片もなかったから、そのギャップがよけいに違和感を増幅させた。
- 【灰の五年間】に関しては、独裁政権による愚かな文化弾圧というものはいかなる場合でも同じ(ただしその範囲においてコミュニズムがより幅広く、かつ美的に狭量であるとは言えるだろう)、という類のものだが、それらが「問われる必要のある過去だ」とするスタンスをキューバの表現者たちが強めているというのは、ごく単純に素晴らしいことである。
- 作者のヘスス・エルナンデスは「アルテ・コンドゥクタ」の受講生であり、かれの作品だけを見ても、その「場」が保持していた自由がいかに高かったかが伺える。
「Utopia/ユートピア」
- 下町で昼日中から仕事もせず酔っ払ってドミノ遊びに興じる男たち、素朴な女子学生、マニキュア塗りの内職をする主婦とその女性客たちなどが、ラテンアメリカのバロック文化、オペラ、ボルヘスの詩など、「階層にそぐわない」高尚な話題に興じ、興奮して暴力沙汰にまで及ぶ様子をとらえたショート・ムービー。
- 革命後のキューバは、公式には階級や貧富の差を否定し、教育の平等を謳っている。革命教育の文化的な理想がもし現実化されたなら、誰もが「高尚とされる話題」を口にし、当たり前のように意見を交すだろう。服装、口調や態度、生活様式は関係がないはずだ。それを現前させてみよう……
- さて、指摘するまでもなくこれは皮肉の映である。展開される光景の異様さ、登場する人々が実際に話す内容からの落差は甚だしいものであり、樋口さんによれば「キューバ人なら誰でも爆笑する」ということだ。
「Buscandote la Habana/ハバナ、あなたを探して」
- この作品だけは唯一、20分ほどがYoutube上にアップロードされていた。
- キューバという国は、日本や韓国がそうであるように、いやそれ以上に政治、経済など全ての機能が首都ハバナに一極集中している。
- 先進国と比べれば比較にならない規模だとはいえ、ひとまずハバナは大都市であり、観光産業の要として経済活動も活発だが、他方、それ以外のほとんどの地域は完全に停滞しきった農村部が広がるだけになっている。
- 地方の疲弊という問題は、大なり小なり世界の多くの国が抱えているが、キューバが特徴的なのは、旧ソ連と同じように、国民は住民として登録された行政区域から移動する自由が制限されている(許認可制で、何らかの理由が必要)こと。
- そのため、不満を抱えた地方の国民の一部は「違法に」ハバナまでやってきて都市に入り込み、「勝手に」廃材等で郊外に簡易住居を作り、一種のスラムを形成しているのだという。政府もそれをある程度は黙認し続けているようで、現状の施策が不十分であることを自覚した上で、締め付けの程度を調整することによって国民の不満をコントロールしたいという思惑が感じ取れる。
- 監督のアリーナ・ロドリゲスは、ごくオーソドックスな手法でそれら抑圧された人々を取材し、けれん味のない良質なドキュメントを撮り上げた。海外での評判も非常に高いという。
- ここで内容と共に作品の評価について外せないことは、同国においてこのテーマでの撮影が成功し、作品が完成したということそのものだ。
- 繰り返しになるが、キューバではいまも言論の自由が大幅に制限されており、特に社会矛盾の追求や政府批判は容易に逮捕・投獄の対象となる可能性を孕んでいる(さすがに先に触れた【灰の五年間】ほどの極端さは見られないが)。違法行為で郊外にスラムを形成する動きを政府が許容しているということや、その前提となる「格差」の存在をクローズアップする作品は、十分に「危険」だ。
- 実際、ロドリゲスも幾度か警察による機材没収や取材妨害に直面したようだが、何らかのネゴシエーションによって決定的な危機は回避したという。
- こうした特殊な交渉技能の獲得も、形式主義と、矛盾をきたしたシステムを強引に運用することに執着した共産圏で作家が作家として生き延びる為の必須事項である。
"偉大な夢"を超えて
- この4月、13年半ぶりに開かれた共産党大会においてフィデル・カストロが完全に政界から引退し、弟のラウル・カストロが第一書記に就任した。
- リーマン・ショック以後、ベネズエラや中国の援助を得てもなお危機を増し続ける経済情勢を背景に、配給制度の段階的停止の加速、市場経済を一部産業へ導入する試みなどが決定されたと言われている。
- さまざま角度から見て、「革命の理想」と「現実」の甚だしい乖離を引き起こしている現革命政権の施策が金属疲労を起こしていることは明らかであり、そう遠くない将来に大きな転換を図らざるを得なくなるだろう。
- 無責任な外国人の眼からすると、フィデル・カストロという大きすぎる伝説の「枷」がその死によって失われることが、いまのキューバにとっては一番必要なことではないかと思う。そして、以後、その亡霊…影に囚われるべきではない、と。
- ハバナ大学でキューバ映画史を教えるマリオ・ピエドラはフェルナンド・ペレスが監督した「永遠のハバナ」のパンフレットに寄せたテキストで、ハバナをこう形容した。
- 【今や貧困と老朽化に支配されている美しい都市は ”終わらない偉大な夢の酸” に浸食されている】
- この"終わらない偉大な夢の酸"という言葉をぼくはとても好きで、自分のテキストに引用したりしているのだけれど、かつて偉大であった"夢=革命"がいまや都市を浸食する停滞という名の"酸"なのだという、この感傷的で生々しい認識は、そのままカストロの姿とも重なるような気がする。
- 偉大すぎる指導者…かれはその偉大さそのものによって、いつの間にか国を蝕む存在になってしまった。
- でも、それを自分で認めることはできないだろう。
*1:いくつかのテレビ番組をきっかけにし、70年代の文化人弾圧事件(【灰の五年間】)の是非に関して、国家著作者協会(UNEAC)まで巻き込んだ様々な議論が巻き起こった。
*2:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312960538
*3:以上すべて、レイナルド・アレナス「夜になるまえに」 国書刊行会 2001より