西へ2010。徳山・回天.2



 
(前回からの続き)


酒した翌朝の気分はいつも最低だ。
2時ころ泥酔いのままHさんとホテル前で別れ、ベッドにダイビングした記憶があるような、ないような状態のまま、朝7時には携帯電話の容赦無いアラームに叩き起された。当然ながら二日酔いの状態だった。
けれど、幸いにしてそれほど重症ではなかった。多少の頭痛と倦怠感、あとは腹を下しただけだった。
起きた途端Hさんから電話が入り、大津島へのフェリーは9時か10時だと告げられるが、体調を考え、もちろん10時便を選択した。
時間まで、残った酒の怠さを消すため冷房のきいた部屋でベッドの上をごろごろと何度も寝返り、定期的に便所に駆け込んだ。
便器に座って歯を磨き、旅の途中で再読しようと携行したレイナルド・アレナス「夜になるまえに」と、未読だったドン・ウィンズロウ「犬の力」上巻を交互にひらいた。
2日酔いで胃腸をおかしくして便器に座っているとき、人が風船を割るように手軽にAK47で撃ち殺されたりマチェーテで切り刻まれたりする描写を読むのは妙な気分だった。
「夜になるまえに」でアレナスがホモと反革命罪でモーロ刑務所へぶち込まれたとき残した記述から、わざと便所に関する部分を読んだりもした。


ぼくの監房はその便所近くにあったので、悪臭ばかりか、糞をひる腹の音にも耐えなくてはならなかった。…蝿だらけのぼくの監房のそばで、腹が猛り狂ったように鳴り、絶えず屁を放ち、糞の上に糞を落す音をベッドで耳にするたびぞっとしたものだった。その悪臭はすでに体にしみ込んでおり、まるでぼくたち自身の一部みたいだった。*1


この一文を読みながら、清潔な便所は本当に大事なものだと確かめるように、ぼくは何度も水を流し続けたのであった。腹を壊しても、資本に管理された近代的な設備は人間に優しく、致命的な不快さから救ってくれることを確認するように。

 
ェリーの時間までにはなんとか腹具合は収まりをみせ、Hさんと合流して無事に10時の便で大津島、正確には馬島へと上陸を果たした(陸続きだが、大津島の一部を馬島と呼称しているようだ。記念館に行くためには馬島に降りるのが一番早い)。
徳山のフェリー乗り場は今でも現役なのにひどく朽ちていて、便所のアンモニアと消毒液の混じったような異臭が鼻をついたが、島の設備はきれいだった。
そしていきなり目に飛び込む看板。「ようこそ回天の島へ」。


めWebで存在を知ってはいたけれど、実際に目にすると、その看板の間抜けさ、脱力感覚はよりすごいものだった。とんでもなかった。「温泉じゃないんだからなあ」「なんなんですかねえ」ぼくたちはいきなり苦笑して立ち止まらざるを得なかった。
いまやかつての自爆兵器も島にとって貴重な観光資源である、それは容赦無く事実そのものだろうが、しかし、あまりにも情けなく、キッチュではないかと思えた。


看板を横に抜け、表示に従って歩くと、大津島ふれあいセンターのコテージが見えた。フェリーで一緒だった小、中学生と大人たちが芝生でバーベキューの準備にはしゃいでいた。「たまには俺も、ここに篭ろうかな…俺は、引き篭もらなきゃいかんかもしれん!」歩きながらキャンプの様子を眺めていたHさんが唐突に、何度かそう言った。こんなのどかな島と、引き篭もり。ふたつの言葉の間には違和感しか無かった。「バーベキュー、いいですね」ぼくはそう返した。
そこから少し歩くと、左手の山肌には木々が生い茂り、右手に塀を挟んでかつては兵舎があった小学校のグラウンドを見下ろすきちんと舗装された坂道があった。
資料には、登って10分ほどで記念館へたどり着くと書かれていた。
道を崖下と隔てるその低い塀の向こう側には兵舎だけでなく、調整工場、出撃用桟橋、飛行機整備場などさまざまな施設が存在したと記述されているが、今や変電所や点火試験場など、いくつかの建物が打ち捨てられているのみだった。
子供たちの姿は見当たらなかった。夏休みに入ったからだろうか。
海と空に視線をやると、フェリーに乗ったときの鈍い曇天はむくむくと太った白い雲に変わりつつあり、青空が姿を見せはじめていた。穏やかな瀬戸内海が太陽の光でだんだんと色の鮮やかさを増している。枝葉の黄色みを帯びた緑と陰の濃緑の対比が強まり、目に眩しい。日差しが強くなると共に気温が急激に上がり、たいした傾斜でもないのに、体から汗が吹き出してくる。



念館の敷地にある石門の前からは、十数メートルに渡ってタイルと砂利で整備された道がまっすぐに続いていた。道に添って左右には小さい生垣が設えられ、手前には回天に携わって亡くなった搭乗員、軍属一人一人の小さな碑が等間隔で設置されていた。辺りには、ぼくとHさん以外、誰もいなかった。しんとして、蝉すら鳴いていなかった。静寂、沈黙…だが、それも当たり前のことだった。
ここで、読み手の腰砕けを覚悟で書いておかねばならないことがある。7月21日の水曜日は回天記念館の定休日だったということを。
そう、この日、施設は休みだったのだ。
旅行全体のスケジュール調整の関係で、馬島に行けるのは水曜日しかなかったのだ。やむを得ない選択だった。
記念館に入れなくとも、いくつかの設備廃墟など見るものはあったし、少なくとも島は何も変わらない、風景も空気も、変わらない。



の入り口付近には「回天」の文字が刻まれた鎮魂碑、平和の鐘、実物大の「回天・○六(マルロク)金物一型」のレプリカ、引き上げられた実際の推進装置の一部などがあった。
フェリー乗り場にも横山秀夫原作の映画「出口のない海」で使われた実物大レプリカが置いてあったが、比べると、素材的にも施工的にも再現性が高いと思われた。
以前、零戦の実物模型を見たとき、その機体の予想以上の小ささ、貧弱な装甲に、こんなにも薄っぺらで小さな鉄の塊が雲の高さまで昇って高速で格闘していたのかと、実際の戦闘をイメージを想像して畏怖を覚えたものだったが、「回天」にそんな研ぎ澄まされた存在感や兵器としての美しさはまったくなかった。
間近で観察してみると、物体としての回天はほんとうに単なる魚雷でしかなかった。貧弱な細長い鉄の円筒というだけのことだった。
叩くと、コンコンという音がした。とても軽い響き。
覆いの薄さは零戦と同じだが、戦闘機には高い戦果と無事な帰還がもっとも望まれているのと比べ、他の特攻兵器と同じく回天は搭乗員が己の肉体を犠牲にすることが予め決まっている兵器であり、攻撃の成功はかれの死と同義だ。この鉄の覆いは兵士の鎧兜ではなく、「死ぬまでは、死なない」ための粗末な死装束でしかなかった。
その違いはあまりにも大きい。生還が想定されない兵士と兵器…
加えて、回天は、そもそも人間が載ることなど全く考えられていなかった酸素魚雷を強引に改造して兵士を積みこんでいる。
爆弾を積んだ兵器、でさえなく、爆弾へと括りつけられた兵士だった。





天はまさに比喩ではなく、端的に「棺桶」だったのだ。乗れば必ずこの酸素魚雷と共に死ぬのだから。
上記のことがらを自分に当てはめて想像してみると、この無愛想でそっけない鉄塊が急にひどくナマナマしいものに見えてくる。
目の前の、人ひとり入るかどうかのハッチから狭い内部に乗り込み、真っ暗な水深80mの海中を、時速55キロで敵にむかって、ほとんど闇雲にちかい状態で飛び出し、ガムシャラに突撃する。操船は出来たが、あくまで目標にぶち当たる為に必要な最低限のものであり、それでさえ困難をきわめるようなシロモノで…
首尾よく命中すれば一瞬で回天は爆散し、ぼくの肉体も同時にはじけ飛んで四散し、血も内蔵も脳も目も鼻も耳も性器も機体の残骸と共に海の藻屑とまじりあう。そうでない場合(回天は操縦の困難や構造上の問題で、攻撃する以前に座礁する確率も高かった)、ひっくり返ったまま海底に沈んで、水圧と酸欠によって緩慢に死ぬか、ただちに自爆・自死するかである。
回天を前にして、細かくイメージを展開すればするだけ、ぞっとさせられる禍々しさと忌まわしさが膨れ上がる。
不謹慎と差別を承知で書けば、なんて哀れで惨めな兵器であることか。
9.11で貿易センタービルに突っ込んだボーイングの映像を「美しい」と形容した人間が多数いたように、空での、航空機による特攻にある種の悲劇的なヒロイズムを見出すのは容易なのだが、回天にはそれさえも困難だ。成功しようが失敗しようが、何にも映らず、残らず、ただ暗黒の水底に沈むだけ。
雄々しく散華する、という幻想を抱いて慰められることさえ難しい。


、狂気でしょ、これ。なんかもう、狂気しかないわ。

周囲を歩きながら写真を撮っていたHさんはそう呟いていた。Hさんの祖父は回天の志願兵だったが、出撃命令が下るまえに終戦をむかえていた。
島尾敏雄「出撃は遂に訪れず」と同じ状況だった。


狂気、、狂気についてどうとらえるべきなのだろう?
確かに、狂っている、というのは容易いことだ。


回天に限らず、特攻という発想を軍が正式採用したこと自体、いまからすると間違いなく常軌を逸した状態である。
ゲリラ的な戦術であったり、戦闘における偶発的な特攻行為ならば多くの文化において実例を見つけることが可能だが、組織的かつここまで多用な兵器を展開しようと試みたのは日本のみだ。
特攻の兵器がお粗末であればあるだけ、扱うには優秀な人間でなければならず、そんなかれらがただの弾丸になって、目覚しい戦果など望むべくもない状態にも関わらず、喜んで次々に命を散らしていった。あっさりと、大量に、一瞬で。
それによって失うものの大きさを考えると、隊員の決意と意志が純粋で揺ぎ無く、高潔であればあるほど、作戦の不毛さ、不条理さがグロテスクなまでに際立つ。
キリスト教国である米軍が、「ジャップは気が違っている!」として、特攻兵器「桜花」を「BAKA BOMB」(日本語の馬鹿から命名)と呼んでいたのも、当然のことだ。
だからこそ、受けた被害以上に気色悪さとおそれを(理解不能なものへの嫌悪と恐怖)抱いていたのだろう。


が、とは言うものの、当時、大日本帝国が陥っていた絶望的な戦況と、あの時代の軍属が持っていた強烈な国体への忠誠心を元にして考えてみた場合、それは必ずしも狂気の沙汰ではなく、むしろ必然的な帰結なのだとも思える。
かれらが依拠していた精神性の文脈に照らしても、不可解さというものは、ない。
思考と精神のありようが大幅に変わってしまった現在から振り返れば、大方の人間は「狂っている」と思うだろうし、共感することは困難だが、想像することは可能である。そうした事柄は特攻以外でもいくつも存在する。
変化した価値観から過去を否定するのは個人の自由だけれど、理解を拒み、ヒステリーを起こして思考停止に陥るのは馬鹿げている。


ととおり敷地内を見終えると、設置されてあった平和の鐘を突いてみる。
ここで鐘をつくことに平和へのどういう意味があるのかよく分からないが、グォーーンと、鐘は予想以上に、はっとするほど大きな音で鳴り響き、あたりの静けさを切り裂いた。





「でかい音だなぁ」
「これ鳴らしちゃってよかったんですかね」
「別に大丈夫でしょ」





Hさんが次に鐘をついているうち、回天のレプリカの横に据えられた慰霊碑に手を合わせる。
鎮魂を祈っていたとは言えない。ぼくは特定の宗教に帰依していないという意味で信仰を持たないし、大筋では唯物論を支持する人間なので、あくまで形式的・慣習的なもの以上の何かを託すことはない。ただ、さまざまな意味性を背負った象徴的な物体には心理的に襟を正させるようなはたらきが確かにある。
数年前、ぼくが他の特攻兵器以上に回天へ強い興味を持ったのはさきの横山秀夫出口のない海」…ではなく、新潮クレスト・ブックスから2001年に出たデイヴィッド・ミッチェルナンバー9ドリーム】の「回天」という章がきっかけなのだけれど、ミッチェルもこの碑に手をあわせたんだろうかと、そのとき、ふと思った。


【ナンバー9ドリーム】での件の章は、沈没した回天から発見された手記という形式だった。
回天部隊の初陣を飾った菊水隊搭乗員の視点から、大津島での訓練から出撃、攻撃失敗までの様子がじつに巧みに描写されていて、一部、現在の思考から逆算しすぎたきらいのある反戦的軍人も出てくるが、全体として、外国人の書いたものとは思えない見事さだった。
ミッチェルは過去に広島で八年間英語教師をしており、妻も日本人だという。
かれがどういう理由でストーリーに回天の章をはさみこんだのか、機会があれば聞いてみたいものだ。


度は海岸沿いまで下って回天発射場跡へと足を運ぶ。途中、先程のバーベキュー・パーティがいるコテージが目に入る。「やっぱあそこで引き篭りてえ・・・」通りすぎるとき、Hさんがまたそう呟いた。
海岸から発射場までは岩盤を数百メートルくり抜いたトンネルを歩いてゆく必要があった。訓練時、隊員は回天を滑車で引っ張ってこの中を移動したのだという。道路の行き止まりに突如巨大な口をあける洞窟は、内部に色々と補強などが施されているようだが、それ以外、ほぼ当時のままとのことだった。その大きさに、外部の風景との落差に、不気味さ、非現実感を強く覚える。




の空気はやはり多少ひんやりとしていて、側溝と壁にはフナムシ、正体不明の小型昆虫、蟹などがはいずっている。数分歩くうち、スポット照明が目に入る。左右の壁に、回天の歴史写真が十枚ほどパネル展示されているのが、目に入る。
近づくと、突如、大音量のアナウンスが響き渡った。「回天特攻隊は悪化する戦局を打開すべく・・・」日本語が終わると、次は同じ内容の英語が流れ始める。一瞬、幻聴ではないかと思ったほど、それは異様な雰囲気を場に醸し出していた。ぼくは携帯を取り出して動画を撮りながら「ほとんどホラーだな」と思っていた。


「この英語音声、いったい誰が聴くんでしょうね?というか、アメリカ人とか、ここに来るんですかね」
「戦史マニアみたなやつが来るんじゃないの?回天て知ってるか?カミカゼとは違うものなんだぜ!とかハシャいでる奴」
「うわあ、そういうガイジン、ちょっと見てみたいな」


無機質な英語がトンネルに鳴り響くなか、喋りながら、パネルをひとわたり、見回す。
以前から知っている資料の通りに、写真の兵士たちの笑顔はさわやかで、屈託がなかった。
何度眺めても、死の棺桶である回天との対比が、とても奇妙だった。



ンネルを抜けると、訓練用の回天を突堤から海に下ろしていた建物まで僅かの距離だった。
もともとは魚雷の発射試験場だったのだそうだ。とりたてて変わったところもないコンクリートの建造物でしかなかった。
空は先程よりいっそう青さを増している。海は凪いで、波一つ立っていない。
回天は訓練においても何度か深刻な事故を引き起こし、隊員が命を落としていたのだが(回天の発案者の一人は訓練中の事故で殉職)、そんな血なまぐささなど想像することもできない、のどかな景色だった。
老人がひとり突堤で釣りをしていて、近くに、かれの自転車らしきものが停めてあった。
普段からよく来ているみたいで、ここが回天の施設であったということなど、意に介していないようだった。



ろそろフェリーの時間が迫っていた。
時刻は12時を過ぎていた。13時の便を逃すと、次は一時間後だった。
もう少しゆっくり歩きまわりたかったが、日差しがかなり強くなってきたこともあって、ぼくらは港近くまで戻って、休息してから徳山まで帰ることにした。空腹だったので、島に唯一の食堂で昼飯をとりたかったが、生憎とここも今日は閉まっていた。
店先にあったテーブルに座って、見てきたものの感想をあれやこれやと言いあったが、戦争だとかなんだとか、そんな話題は風景にまったくそぐわず、浮き上がっていた。言葉が空気に吸い込まれてしまうような感覚があった。


回天、大東亜戦争、特攻、、、いったい、何語ですか、それは…



、こんなとこに住んでたら、性欲とか無くなるんじゃない?文学とか、無理だ、ありえないわ!昼寝の方がリアリティあるよ!」


Hさんが、最近買い換えたとか言うdocomoXperiaをいじりながら、その使いづらさを罵りながら、呟いていた。
床下では、猫が数匹、人間の存在などお構いなしに爆睡している。
上半身裸の中学生みたいな二人組や自転車の少女が横を通り過ぎたが、みな胡散臭そうにぼくらを見ていた。
実際、胡散臭かったのだ。平日の真昼間から、いい大人が何をやっているのか?
しばらくして起きだしてきた猫までこちらを不審視しているようだった。
ぼくは苦笑してそいつの耳をねじったが、猫は煩そうにまた目を閉じただけだった。


山行きのフェリーから眺める大津島は、行きよりもさらにちっぽけに見えた。
天気はもうこれ以上ないほどの晴天になっており、太りきった入道雲とスクリューに砕ける波の白さが、海と空の二種の青に美しいコントラストを見せていた。
回天の兵士たちが最後に目にしたのも似たような眺めだったのだろうか。
海も空も当時から何も変わってはいない。
何も思わないし、感じない。
感情を託すのはあくまで人間だ。ぼくらは過去を、イメージを重ねてしまうことからは、逃れられない。
かれらはきっと、写真のような、あの素晴らしい笑顔で「天皇陛下万歳!」と叫び、勇んでこの風景に別れを告げて出撃したのだろう。
かれらは死を恐れなかったし、意志の強さと勇気は図抜けており、痛ましいほど真摯に自己を投げ打った。
けれども、繰り返すが、だからこそより悲劇的であり、哀れな、おぞましくグロテスクなものなのだ、回天をめぐる歴史の物語は。




十六年後のぼくらは、バンザイも陛下もなく、「空めっちゃ青い!」などとむやみに携帯やデジタル一眼のシャッターを切っており、徳山港に着いたらさっそく昼からビールだ刺身食いてえだなどと抜かしているのだったが、「英霊」にすまないだとか、恥だ、などと思うことはない。
思いたい人間を否定はしないが、共感も同調もしない。仮に「英霊」に問い詰められても、同じことだ。
忘却すべきではないが、過去はあくまで過去であり、記憶は記憶で、記録は記録だ。
ぼくは過去に囚われて生きているわけではなく、単に今を生きている。それだけのことだ。




【追記】 同行していただいたHさんが当日の記憶を書いたエントリ
http://d.hatena.ne.jp/hiroshin_hsmt/20100809/1281358378

*1:レイナルド・アレナス「夜になるまえに」P253~254。国書刊行会。1997年。