西へ2010 回天と徳山.1



7月の19日夜から25日昼にかけて、地方に住む知人・友人を訪ねてまわった。
19日夜に新宿を出る夜間高速バスで大阪まで行き、そこから青春18切符を使う鈍行による移動で山口県の徳山まで向かって、岡山、奈良、大阪、静岡と途中下車し、東京まで鈍行で折り返してきた。


う9年ほど、毎年夏になると主に鈍行を使って日本を西に移動し、東京にまた戻るという旅をしている。
はじまりは大学一年のときだった。まったくおカネが無いなか、長崎ハウステンボス村上龍が企画したキューバ音楽のイベント「クラブ・トロピカーナ」を観るために選んだ苦心の策
だった。だが、数年が経ち、ハウステンボスの経営難もあってイベントが終了しても、そんなふうに旅すること自体はずっと続けることとなった。
地べたを這いずるが如く代わり映えしないようでいて実は微妙な風景の差異をみせるニッポンをノロノロと移動していくのは、ぼくにとって実に楽しめるものだったのだ。
まだ体力もあり、時間もあるうちだけの、呑気で、ある意味では贅沢な娯楽。
移動先に知己がいる場合、それはより素晴らしい記憶になった。


山にはちょっと変わった縁からmixi上で知り合った年上の友人の実家があって、かれが今そこに住んでいた。加えて徳山の沖合に浮かんでいる大津島には、太平洋戦争末期に旧帝国海軍が作り上げた狂気の特攻兵器「回天」の基地跡地と、隊員たちを偲ぶ記念館が存在していて、以前から訪れてみたい土地だった。
実は昨年も同じように大津島を目指して徳山にやってきていたのだけれど、生憎とその日は徳山近郊であちこち土砂崩れも出したとてつもない大雨の日であり、当たり前だがフェリーが動くはずも無く、しかし午後にはもう徳山を離れなければならなかったため、ぼくはスゴスゴと退散したのだった。


年はその大雨が一週間ほど早く訪れていたため天気は晴れ晴れとして素晴らしい青、不気味な高速バス車内から一転して大阪〜徳山まで実にのどかで心地良い眺めが続いた。途中、博多まで18切符で帰省するのだという老人に手持ちのEOS KISSを「良いカメラですね!」と褒められ、一時間ほど話をした。どうしてそんな話題になったか忘れたのだが、老人は日教組教育を激しく罵ったり、90歳になる耄碌した実母の愚痴をこぼしていた。
広島から山口へと向かう途中の乗り継ぎ駅でかれはいったん下車したが、「あ、それじゃあここで」とそそくさとする仕草には、ぼくにあんな話をしたことを恥じているようにも感ぜられた。


れ果てた徳山駅でぼくを出迎えてくれたHさんは相変わらずの貫禄だった。
村上春樹村上龍を敬愛し、近代的な小説を書くHさんは、まだ三十代半ばだったが既に中上健次のような重量感ある押し出しを伴った風体をしているのだった。
一見ゆるい物腰だがどことなく「この人はヤバい」という不穏な目の光をしていて、それを隠そうという努力はしない人だった。
案の定、老婆か老人か夏休みの女子中学生しかいない駅前でタバコをふかすその姿はひどく浮いていた…
Hさんは本人が度々自虐的に語るように、なにか壮絶な過去を想起させるような具合で呂律が怪しかった(ホントのところは、呂律は過去と関係ないんだけれど)。
Twitterでアイコンに自画像載せたらさ、とある女に“ヤクザ?”って言われてね。それはないよね…」と嘆いていたが、その度ぼくは、や、わかる!と答えるのだった。


日には午前早くから大津島行きを控えてもいたので、さっさと呑み始める予定だった。
が、それにしてもまだ16時30分すぎだったし、二人で小一時間ほど徳山駅周辺をぶらっと歩きまわった。
当たり前だがさほど多くのものを見たわけではないけれど、どうもそれで十分だと思えた。
修辞に凝るならば、街は滅びの顔を見せていた。端的に表すなら、死んでいた。
疲弊する地方都市のうら寂れた光景と片付ければとりたてて珍しいものでもなかったが、それでも疫病にやられて施設ごと全て打ち捨てられたような地下街や、無慈悲にシャッターが下ろされ『テナント募集』と書かれたコピー紙が雑に貼られた建物だらけの眺めはぼくたちの気を滅入らせた。
そんな中でも、ほんの数軒、青山や六本木に存在してもひとまずおかしくはないような洒落た店があり、目抜き通りの交差点には「全国標準」な服装で武装した美容師の男がチラシを手渡そうと、未だ訪れぬ誰かを手持ち無沙汰で待ち構えてもいたが、残念ながら、通りにかれの待ち人は歩いていない。というか、人が歩いていない。
それはもの悲しく、絶望的なまでに浮き上がった眺めだった。一枚9000円のTシャツはここでは何の意味も無く、ばかりか、滑稽でさえあった。


もうね、ユニクロを建てればいいんだよ、でっかいやつをね、とHさんは笑っていた。
誰も歩いていないシャッター通りには「山口美少女図鑑」なるものの募集ポスターが貼ってあったりもした。
荒涼たる風景の中でそれはスベったギャグが永遠に放置された罰をみるような、どうにもならない居たたまれ無さがあった。
「自薦・他薦問いません!」との一文に、二人で「自薦はヤメろよな、自薦は…」と呟いた。
「”美少女”がいるのか?山口には…。三十路くらいのわりとブスい主婦とか平気で応募してきそうで怖いんだが」Hさんはそう唸った。(http://yamaguchi.bishoujo-models.jp/←で「美少女図鑑」によれば山口の美少女とはこんな感じなんだそうだ。なるほど…)


一通り繁華街の残骸を歩き終えたとき、Hさんは改めて、という感じで苦笑した。
「いやあ、や、やぁっぱひでえわ、終わってるな、ここは。こんなとこで暮らせないって」
そして、寂しそうに言った。
「でもねえ、全盛期は、って単に俺の子供のころだけど、なかなか賑わってたんだよ、いやマジでなのよ…」
今やなぜかキャバクラが多く、いくつかのピンサロも繁盛しているという。そして、近郊に繁華街が無いという理由だけで多数存在する飲み屋だけ、かろうじて人が集まる場所だという。ぼくには失うものとしての、一般的な意味での「故郷」が無いのでこういう感覚はわからないが、滅びの記憶があるというのは貴重なことのようにも思えた。





17時30分を過ぎたので、Hさんが「予約」していた居酒屋で酒を呑みはじめたが、「予約!」聞いてぼくはア然とした。


「予約ですか!」
「あんだけ人が歩いてないくせに、この辺りって予約しなきゃ飲み屋入れなかったりすんだ、意味不明だろ?」


Hさんはそう説明したが、ぼくらが駆け付けな感じで生を一、二杯やるうち、なるほど次々と「予約」客が現れ、席が埋まっていく。いったいこの人たちはどこから湧いて出たてきたのだろう?などと不謹慎に思ってしまうぐらい、店内は賑わいを見せていた。


「こんな感じで、なんかまあ終わってるとこだけど、とりあえず、魚は美味いと思うんだよ」


Hさんがそう言いながら注文したつまみは確かにどれも質が高くて美味しく、酒がすすむのだったが、でもそれがかえって哀切なものを感じさせる。
「これはアレですか、国破れても山河はある、と。瀬戸内海だし、たしかに魚は美味しいですもんねえ」とぼくは言った。
「は、廃墟!だよ、近代の廃墟だよぉここは!」Hさんは酔っ払ってますます呂律を怪しくさせながら応えた。
いわゆる田舎を故郷にする人の中には、その土地を軽蔑し、忌避しながらもまさに土地に魂を囚われている人種が少なからず存在するが、Hさんもそんな中のひとりに見えた。



を飲みながら二人で何を話したかはよく覚えていない。
たぶん、文学の話はあまりしなかったように思う。単に下らない、ほんとーに下らない猥談だとか、Twitterであれがムカついただの、これがムカつかないだのという、心底ロクでもない話ばかりしていたのじゃないだろうか。Hさんは金銭から解き放たれた自由恋愛を強力にアジるW村上が好きなくせにキャバクラを愛しているので、徳山のキャバクラ事情について熱心に語っていたようにも思うが、それもちぎれとびれで、まだらな記憶だ。
Hさんとはメッセやスカイプでもよくチャットするのだが、真面目な話ももちろんするけれども、基本的に身辺雑記ばかりしゃべっている気がする。
その真面目さも、誰かのエクリチュールを詳細に検討するとかそんなことではなく、時事ネタや身近な出来事について、互いの基本的な賞賛や憎悪の認識を確認しあうようなものである。たぶん、それで十分なのだ。お互いが何を憎み、何を必要としているか確認するだけで。


述のように明日があるので当初はやめに切り上げる予定だったのだが、21時ころにHさんの幼なじみである地元の美容師女性Kさんが合流してから予定がおかしくなってしまう。
ムチャクチャ酒が強いKさんに引っ張られてガンガン生中を飲んでいると、あらあらと、もう23時になっている。
Hさんも普段はムチャクチャに酒が強いが、その日は調子が悪かったらしく「わたくし、ちょっともう酒は…」と、彼女に圧され気味だった。
そして気がつくと場所はいつの間にか近くのカラオケ・シダックスへと移動しており、ぼくは「お、かまってちゃん、マジでカラオケ入ってんじゃねーか、超ウケる!」などど騒ぎ「神聖かまってちゃん」の「ロックンロールは鳴り止まない」など歌ったりしたのだが、それ以後はあまり記憶が無い。
Hさんは途中からその女性と人生について語りだしてしまったので、どうやらぼくはグースカ寝てしまったようだ。カラオケの便所から意味不明なメールをHさんに送信したりしていた。
結局、深夜二時くらいまでカラオケでの馬鹿騒ぎは続き、まだ旅行初日だというのにぼくは泥酔いのままビジネスホテルのベッドで意識を失ったのだった。


(続く)