メモ・第一回新宿文藝シンジケート読書会「哲学実技のすすめ」終了


以前のエントリでも紹介した、「新宿文藝シンジケート」の第一回読書会が、予定通り10月30日に開催された。


【新宿文藝シンジケート】公式ブログ
http://d.hatena.ne.jp/sbs_reading_circle/



当日まで人数は流動的な状態だったが、最終的に、この日の参加者は五人。
課題図書は、ぼくが推薦した中島義道「哲学実技のすすめ」だった。
多作な著者の作品中では埋もれた本に近いが、かなりの好著である。
(以下、はてな引用記法か【】で括った部分はすべて当該書籍からの引用。掲載ページは末尾)




ぼくを含め、当日の参加者(参加予定者)は誰も哲学を専門的に学んでいない。
全員、偉人クラスの哲学者を一般教養レベルで把握しているぐらいの理解しか持ち合わせていない(日本における「哲学」というものの普及度、社会的地位を考えれば、当たり前といえば当たり前のことなのだが)。
一人だけ、著者・中島義道の主宰している哲学の私塾、哲学塾カントの受講生だった方がいたのだけれど「中島先生の言うことが難しくて全然わからなかった!あれは哲学の院生が聴くレベル」とブルブルブルッと首をふっていた。

門外漢の集団が、「哲学すること」について捉え直すと謳うこの本から何を読み取り、それを媒介にどういう種類の言葉を交わせるのか?そして、それを如何に各々の「からだ」にフィードバックしていけるのか?その辺りがこの日のポイントだった。
中島の理解によれば、何らかの「実利」を求める時点で哲学の徒としては完全に堕落しており、失格ということなのだが、ぼくらはそんな厳しい倫理を持ち合わせないし、真摯な哲学徒=愛知者ではないので、かまうことはないのだ。

「哲学すること」≠「哲学を研究すること」



「哲学実技のすすめ」は、中島の分身である(と見なされる)N教授が、「日本は哲学研究者ばかり養成していて、哲学者を育てていない」として、自ら哲学者を養成する塾を開設しようと思い立つところから始まる。
まずは、これまで講義等で関係のあった複数の生徒たち(年齢、職業はまちまち)を研究室に呼んで、N教授が信じるところの「哲学」を伝授し、その反応如何で塾の運営が可能なのかを見定めるという設定になっている。
ただの講義形式ではなく、最初から最後まで、N教授と生徒たちの仮借ない対話によって進行してゆき、それが本書の試みを成功へと導いている。
登場する生徒たちは、先述した哲学塾カントの前身である「無用塾」に実際に来ていた人間を中島が観察し、架空の人格として再構成したのだそうだ。



本書に限らず、中島が他の著作でも繰り返し繰り返し、再三再四述べていることに「哲学すること」と、「哲学研究/研究者」は、厳密には違う、というものがあり、N教授(以下、中島)は後者を批判した上で、「哲学すること」の具体的心構えを説いてゆく。


油絵科で、油絵の歴史や名画の解説ばかりして、実際に絵を「描く」訓練をしなかったら、おかしなことだ。また、水泳を教えるのに教科書とスライドそれに黒板だけで教えて、実際に「泳ぐ」訓練をしないとしたら、おかしなことだ。


同じように、哲学もフッサールだのヴィトゲンシュタインだの教えて、実際に哲学的に「語る」訓練をしないとしたら、これらに劣らずおかしなことなのだ。
それなのに、ほとんどの哲学科では「実技」を教えない。押し黙って、なんの質問も出ない状態で、認識論を講義し、「純粋理性批判」を解読するだけだ。


哲学者は、画家がみずからの絵を描かねばならないように、水泳選手がみずからの泳ぎをしなければならないように、みずからの言葉を語らねばならないんだ。でなければ、(自ら創作しない)ミケランジェロ研究家が画家でないように、(自ら泳がない)スポーツ評論家が水泳選手でないように、哲学者ではなく哲学評論家ないし哲学研究者にすぎない p20


上記のようにして「哲学する=みずからの言葉を語る」ことが、ただ単なる哲学マニア=哲学研究者であることと分けて定義され、さらに「哲学的に語る」という行為が、以下のようなものとして定義される。


【 哲学とは考えることだ。しかも、「からだ」で考えることだ p19 】


【 哲学とは自分の体感の知的緻密さ、さらには呼吸や血の巡り、つまりひとことで言えば「からだ」にぴったりした言葉で語ることなのだから。そのために苦心惨憺して、自分固有の言葉を開拓することなのだから p60 】


【 自分の「からだ」を発見することだ。誰でも自分の言葉を鍛える前に、自分の「からだ」をしっかりとらえなければならない p67 】


【 自分の「からだ」から出た言葉を尊重して「ほんとうのこと」を正確に語り続けることだ  p10 】

「からだで考える」「ほんとうのことを語る(=真理の追究)」



「哲学実技のすすめ」では、くどいほど「からだで考える」「ほんとうのことを語る(=真理の追究)」という行為が「哲学する」ことの絶対条件だと語られる。
(特に後者に顕著だが)カントの道徳理論を下敷きにし、平易な言葉に「翻訳」されたこの二つの行為が、本書を読む上でキーになる。


まず、「からだで考える」とは、いったいどういうことか?
中島は、その語感からただちに、安易に連想される下記のようなことではないと書く。


【 無反省な生理的レベルで考えることではない p27 】【 体験主義でもない p27 】


それら脊髄反射的行為は、「からだ」を使って考えてはいない。
むしろ、退けられねばならない反応である。


ただ、「からだ」の命じるままに動いているだけだ。そこに一抹の真実が潜むとしても、むしろコミュニケーションを安易に遮断する機能をもつ。他人を排除する論理であり、自分の体験にあぐらをかく論理だ。怠惰だといえよう p27


「からだ」とは、体験の集合ではないのだ。それは、生きていることそのものだと言っていいだろう。五感をとぎ澄まして、さらには哲学者たちが「内官」と呼ぶ自分の良心の叫び声ないし道徳的感受性にも耳を澄まして、考えることだ p27



「からだ」は、ニーチェ「きみの最善の知恵の中よりも、きみの「からだ」の中により多くの理性があるのだ」という意味の「からだ」でもあるのだという。

そして、「哲学をする」為には、「からだ」から出たその言葉で、常に、何時いかなるときであろうとも「真理」を、「ほんとうのこと」を語り続けるよう心がけなくてはならない。加えて、それは何よりも優先されなくてはいけない。


【 きみたちが本気で哲学しようとするなら、いついかなる場合でも、真理の追究を避けてはならない。とくに真理の追究が不幸を呼び起こすのなら、それを受け入れねばならない。言いかえれば、幸福の追求を真理の追究より上位に置いてはならない(…)相手を傷つけ自ら傷つくことになっても、真理ならそれを語らねばならないということだ p51 】


【 真理についての厳密な議論をすれば長くなるが、ここではそれが主眼なのではない。日常的に言う「ほんとうのこと」だよ。つまりウソでないことさ。みずから「ほんとうのこと」を知っている場合だけ、われわれはウソをつくことができる。さしあたり、こういうレベルにおける「ほんとうのこと」で十分だ。p51 】


【 真理を語るとは、まず目撃したこと、観察したことをあるがままに語ると言うことだ。だが、このことだけではない。さらに徹底的に訓練しなければならないのは、きみたちの心の動きをなるべく(なるべくでいいんだ)、あるがまま言葉に表すことだ p52 】


【「ほんとうのこと」を語るということは善であり、これは往々にして幸福と対立する。(…)誰もこれまで守ったことがなく、人間である限り原理的に誰も守れないとしても、「ほんとうのこと」を語ることは無条件に善い。カントはこう考えた p102 】


【 ぼくが言いたいことのすべては「できるだけ真実を語りつづけよ」という一点に収斂するのだ。そこから導かれるあらゆるカッコつきの「害悪」を噴出させても、真実を語り続けるという使命を担うのは哲学しかないと思っている(…)哲学者とは、そもそも真理を求める者、それも真理に激しく恋い焦がれるほど渇望する者のことではないのだろうか?そうであれば、いかなる者も哲学者であるからには、真理を第一の価値にしなければならないのではないだろうか? p140 】

定言命法への違和感



本文では、以上のような、中島が信じるところの「哲学する」行為(「ほんとうのことを語る」「からだで考える」)自体と、それらがなぜ必要なのかが、さらに詳細に、さまざまな状況や具体例を挙げて、対話として記述されてゆく。

最終章ではそうした「哲学する」存在であるための社会的な条件とはなにか?という段階まで踏み込み、中島と生徒たちのやりとりは非常にスリリングなのだが、いずれせよ、上述した様に、ここで下敷き/前提となっているのはカントの道徳律、有名な「汝の意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」という定言命法から派生する難解な理論である。


「いついかなる時でも、どんな条件も無関係に、真実を語らねばならない」


「無条件に道徳的な善である」とされるこの格率に関しては、既に膨大な研究が成され、色々とリッパな人たちが色々とリッパな見解をリッパに語っている。
ここでは、その内容に立ち入る余裕も力量もない。
当日の会場でも、参加者から色々な見解が述べられはしたが、結局ぼくらシロウトは全員、カントに対しても、中島が語り直すところの「幸福よりも真理の追究を優先せねばならない。害悪をまき散らしても、真理を語らねばならない」という格率に対しても、「実行はもちろん、共感もできない」という、ごく当たり前というか、しごくツマラナイ結論に至ったのであった。

それを代弁するかのように、第五章「『きれいごと』を語らない」の最後で、学生の一人、主婦のOさんが中島を拒絶し、きっぱりとこう言い捨てて教室を去ってゆくシーンが、みな強く印象に残っているという。


先生のように無理にでも考えようとしますと、ときどき「からだ」が震えてきますし、胃が痛くなってくるんです。
あるときフッと、身の震えとか胃の痛みが語ってくれることが真実なのではないか、と思いつきました。そして、それは先生のお考えになる哲学を自分が受け入れないことを示しているのではないか、と思うようになりました。
なんでそんなに身をすり減らして生きなければならないのか、私どうしてもわかりません。
もっとゆったりと自分の身の丈に合った生活をしてはいけないんですか?私は 静かに生活したいんです。闘争的人生なんか厭なんです。
やっぱり「幸せ」になることを求めているんだと思います。哲学をしてその結果不幸のドン底に落とされるんなら、哲学なんかいりません。一度限りの人生なのですから、自分で納得いくように生きたいと思います。p131-132

「哲学」的な「普遍姓」とは



カントがなぜ、Oさん曰く【「からだ」が震えてくる】とまで言うような厳しさを命じる観念的な道徳論をあえてブチ上げたのかも、到底、ぼくらの理解の及ぶところではない。
ただ、このような非妥協的な自我のあり方、…厳しく自己や他者を言葉で分析し、論理として構築し語り尽くす姿勢…は、やはりキリスト教を下敷きにした、欧州文化の精神から根を生やしたものであって、そこを完全に無視し、あたかも全世界の普遍的な道徳や善であると語る姿勢は(既にもう、批判しつくされているようだけれど)、それ自体きわめて西欧近代的な傲慢さを孕んでいるだろう。



「こういう自我って、やっぱりアジアからは出てこないものですね。孔子は、弟子から『先生、このあいだと仰ってることが違いますよ』、と問われたとき、状況に応じて語り口や内容を変えることこそが知恵なんだ、とか答えてるし、まるで正反対」


哲学塾カントに半年間だけ通っていたNさんはそう言っていた。「やっぱり中島先生が信じているのはカントの道徳なんですよ。視線が徹底して西欧近代。この本も、その啓蒙書ですよね。カント学者だったから、当たり前のことなんだけれども」


「かれは他の著書や講演で、『生活してゆく上で根ざす倫理や道徳の精神がまったく、根本的に違う国で、さも自分たちの問題であるかのようにカントやデカルトの理論をシャーシャーと語るのは欺瞞』とか再三語ってますね。からだを改造すべきだというわけだ(笑)」


村上龍も、たとえばジュネを自分のことのように語る日本人はちょっと異常だ、とか批判してたな」


「結局、侵略もあって、ここ百年、二百年は西欧近代の価値基準が世界を覆ってますから、カントだって単なる辺境(ヨーロッパ)のいち思想家ではなく、世界的な『哲学者』になるわけですよね。でも仮に中国が世界を支配して、漢字文化が主流であれば、諸子百家とかが、いま言われるところの『哲学』のスタンダードになってたはず。現在、かれらの遺した営為は一般的に『哲学』と呼ばれないで、東洋思想とか、東洋哲学とか、中途半端な扱いを受けてるわけですが、行為としては同じことですから」


「確か、柄谷行人は、西欧での哲学という営みは、日本の場合、思想、つまり批評こそが該当するんだ、ということを言ってますよね。中島先生が言うように、みずから考え、みずからの言葉を開発し、語るのが「哲学」であるなら、その意味において、ずっと正統的な「哲学」だったのだ、と。日本の社会や大学では、誰々研究者という名のオタクが「哲学」ということになってるけど、そうじゃないんだと」


「逆に、内田樹は、こんな極東の島国・日本で、しかも日本語というマイナー言語で「哲学」したって世界の中では殆どなにも無かったことと一緒なので、我々に出来ることは「哲学研究」くらいしか無いんだ、みたいなこと言ってますよね」


「内田センセイって、そんなこと書いてたんだ??宮台真司とか小谷野敦は、社会学に関して、「社会学」学者は、社会学そのものにすごく詳しいだけであって、全く社会に向き合ってない、と学問オタクを批判してますよ」



「からだで考える」「ほんとうのことを(自らの言葉で)語る」という行為を巡ってぼくらが交わした上記の会話で触れられている柄谷行人の発言(正確な出典が不明だが)は、確かに、中島が述べるところの「哲学」にかなり近いと言えるし、自閉や排他、そして権威主義に陥りがちな学問への批判としても、ある程度、説得的である。

ぼく自身も、「哲学する」ことはなくても、今後自分でものを書いてゆく上で、この二つの行為は、縛り・戒めとして、とても重要なことだと思っている。特に、「からだで考える」ことの重要さを、執拗に、詳細に語っていた部分には、それこそ「からだ」のうちでモヤモヤとしていた部分を鮮明にされたようで、非常に刺激的だった。

分からなさを語ること



第一回の読書会は、スタートした歌舞伎町のレンタル会議室、そして場所を変えて場末の酒場で夜半近くまで続いた。

度々書いた通り、真摯な哲学徒=愛知者でもなく、シロウトだらけの面々ではあったが、議論は最後まで活発さを保っていた。本文中で、生徒Sくんが中島の議論を「茶飲み話」「哲学的思索への準備体操としてなら認めますが、それ自体哲学的な厳しさがない。哲学的言語を使っているとは思えませんね p41」と批判するような類のものではあったけれど、「哲学塾カント」で配られた難解なテクストも参照しながら、「さっぱり分からないし、共感できない」「理解できない」という部分について、盛んに言葉が交わされていた。

分からなさを、分からない人間同士で話し合うことに大幅な理論的生産性は望めないかもしれないが、「哲学実技のすすめ」は、確実に対話を「誘発」する仕掛けに満ちていたと言える。



次回の課題図書はまだ決まっていないが、ひょっとすると、もう一回、この本が継続するかもしれない。

※ 追記


この日の読書会では殆ど触れられることがなかったのだけれど、「哲学実技のすすめ」は、カントやニーチェを下敷きにした理論から「哲学すること」を定義づける啓蒙書という点とは別に、中島義道自身による、これまでの自身に対する自己批判というメタレベルの側面を持ち合わせていることも明記しておきたい。
「ヨシミチ本」マニア、中島ウォッチャーには、その点だけとっても必読の一冊となっている。以下、少しだけそこに触れることで、本文の補遺としたい。



本書に登場する生徒たちは、脇役に近い会社員の一人を除いて、何れもがN教授=著者・中島義道に対し「先生はおかしい」(著者による自理論への批判)と容赦なく批判を展開し、章が進むごとに、一人また一人と研究室から去っていくのだが、中盤から終盤にかけての「身の危険を感じても語る」「偉くならない」「精神のヨタモノになる」といった章は苛烈であり、とりわけ興味深いものである。



それらの章では、エントリ本文でも触れたように、「ほんとうのことを語る=真理の追究」から展開して、「哲学する」存在であるための社会的な条件とはなにか?について話し合われているが、序盤から厳しくN教授(中島義道)を責め立てていた数人の生徒が、N教授(中島義道)の根本的な欺瞞を指摘する。
曰く、N教授(中島義道)の社会的に成功した地位が「先生の自由な発言を担保している」のであって、その点をいっさい無視して、無力なぼくらに同じように「社会的に危険で、排除や抹殺されかねない」こと、すなわち「ほんとうのこと」を語り続けろと言うのはオカシイではないか、と責め立てる。
「偉くならない」だの「ヨタモノになれ」だのを、社会的に「偉く」「ヨタモノでない/なる気もない」人間が、どの口で言うか、と、いいかげんにしろ、と。



それに対するN教授=中島義道の答えに関しては本書を読んで確認して頂きたいのだが、こうしたメタ・レヴェルの構造を、「対話」で進行する本に仕込む著者の、ねじれた誠実さとでも言うべき自我=キャラクターはつくづく「オカシイ」と思う次第である。