画家の部屋@小崎哲太郎



高度 130.3x97.0(cm) oil on canvas 2010




気圧 oil on canvas 145.5×145.5 2009



終わりつつある今秋の某日、取手まで遠征した。
予備校の先輩であり、先日結成された「新宿文藝シンジケート」の一員でもある画家・イラストレーター、小崎哲太郎さんの自宅兼アトリエに押しかけた。


小崎哲太郎
Twitterhttp://twitter.com/#!/tetsutarok
Web→http://www.art-it.asia/u/tetsutarok/
Web.2→http://www.kosakitetsutaro.com/works.html



小崎さんが夏に参加していたKaikai kiki Galleryのグループ・ショー「現役美大生の現代美術展-Produced by X氏」に出していた作品などを含めた近作を詳細に見せてもらうためだ。
カイカイキキによるプロフィール



小崎さんはぼくより先に予備校(新美)から芸大に行ったので、在籍期間は重なっていない。
けれど、二人とも、海老澤功さんという非常に優秀かつ変わったキャラクターの先生が受け持つクラスに所属していた。


ぼくが受験するにあたって、海老澤先生は言った。


「お前が芸大に受かるには(去年受かった)小崎くんの路線を参考にするといい」


そんなふうにして資料を見せられ、かれの存在を知った。
そして、受験前には色々と話しを聞かせてもらった。


結局ぼくは芸大一次で爆沈して多摩美に行き、その後、再受験することもなかったから小崎さんとは学友ですらない。けれども参作から発していた、ひいては描いた人間が持つと思われた才能の美質はぼくを惹きつけたし、とても希少なものだと直感させるものだったから、折にふれて作品を見せてもらっていた。


お互い大学院にいた2006年には、かつて茅場町に存在した「Gallery≠Gallery」という変わった名前のインディペンデント・半レンタルのスペースで、恩師・海老澤先生も招いて一緒に展示を行ったこともある(そのさいのDM)。



なんとも寒々しく酷烈な取手の風景にひっそり佇む住居兼用のアトリエで、ここ最近の作品を開梱してもらい、再び間近で観察する。
「展示」状態ではない絵画は、いつ見ても少し所在ないようで、悲哀を感じたりもする。サイズが大きい場合は、尚の事だ。
つくづく、住宅事情なども含めて、モダンアートは現世のたいていの場所、空間に、「ぴったりしていない」異物なのだと思わされる。

冒頭に掲示した「高度」は、「現役美大生の現代美術展-Produced by X氏」の際、中野ブロードウェイにあるHidari Zingaroで展示されていた。
先述したように、ぼくは予備校の参作から芸大在籍時も含めて小崎さんの絵はだいたい見ているのだが、初見の段階で、もっとも好きな作品のひとつになった。



ある時期以降、小崎さんの作品には抽象化された「裸体」がしばしば登場する。
そこでは、特定の人格を持った「人物」を詳細に表象するのではなく、有機的で不可思議な「かたち」としての「裸体」が、記号性を維持したまま造形的な要素として取り入れられているのだけれど、「高度」では、戦闘機(?)とのドッキングが非常に効果的である。

裸体&兵器、、、この二つを「メカ+萌えキャラ」などと書いてしまうと(こうして書くのも恥ずかしい…)、それこそヲタ的な俗情の手垢に塗れに塗れきっているカップリング以外の何者でもない。
が、きわめて限定されたいくつかの中間色だけを使って描かれた「高度」においては、それらが陳腐な妄想の、安易な抱き合わせとは全く見えない。
彩度の低い、けれど、くすんだ鈍さとはまったく無縁の乾いたトーン、最小限の、抑制された筆致で描かれる記号的な裸体と戦闘機(のようなもの)は、非現実の観念を、硬質で強く、屹立した絵画のイメージとして画面に立ち現れているのだ。



予備校時代からずっと変わらないのだけれど、小崎さんの絵画にはどこかジョルジョ・モランディのように、プライベートなものと、浮世離れした「非・個人性」とでも言うべきものが同居しているような印象を受ける。
極めて私的な、普通、内向的とも形容されるであろうイメージやモチーフを具象しながらも、対象の現実における意味性を剥ぎとった上で「画面の抽象的な濃密さ(ぼくらそれを【絵画的】と呼んでいた)」を増すことに注意を払った作品群からは、作者のナマナマしい息づかいがまったく感じられず、


「だからあたしを見てぇーーーー!(@惣流・アスカ・ラングレー)」


という、声高な自意識がへばりついていなかった。
小説の場合なら、「地声」が出ていない、とでも言えばいいか。


意図せざるかどうかはともかく、安いエゴから切り離されているところが、かれ独自の美質を担保する理由のひとつだろう。





「水浴」 oil on canvas  2004



「人と舟」 oil on canvas  2006



上の「水浴」は学部の卒業制作であり、「人と舟」は「Gallery≠Gallery」のグループ・ショーにて公開されたものだが、学生が作るものといえば大概が、上記のような「わ、わ、わたしを見てえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」状態の、作者のどや顔飛び出さんばかりの暑苦しさに満ちているか、無意識に精神的なヌルさがダダ漏れている幼稚なものばかりだったから、表面的な平穏さや地味さ、素朴さとは裏腹に、小崎さんの絵は異様であった。
海老澤先生はそれを評してよく「格調高いね」と言っていた。


「格調」、なんていうと「洋画」の世界にありがちな、頭のヨワい、うすら寒い翼賛コメントに響く危険性もあるし、実際「格調(笑)」とでも言うしかな滑稽な作品が世には溢れまくっているのだけれど、かれの画面には、そんな次元ではない、ある種の「品」とでも言うべき雰囲気や気配が、明確に存在しているのだ。



モランディと書いたが、「高度」はリュック・タイマンス的とも言える。
下に貼った「重力」「高度」の前段階の時期に制作されており、前者ほど近似を感じさせないのだが、過剰に映像的な手法を用いない、ある時期のタイマンスに雰囲気のレベルで近いものは確かに存在する。



重力 oil on canvas 145.5×145.5  2009



そして、これには個人差があるかと思うが、「高度」「重力」を観たとき、タイマンスと同時にぼくが瞬間的に思い浮かべたものは、「なるたる」「ぼくらの」で著名になった鬼頭 莫宏氏の作品にあらわれるキャラクタ・イメージだった。


 



特に、鬼頭氏が「少年少女に【死の匂い】を感じるような年齢になりました」という痛々しいコメントを単行本に寄せていた「なるたる」に顕著だが、鬼頭作品で主要な役割を担う子供たちや人間を超えた存在たちは皆、手足が極端に細く引き伸ばされた、奇妙な、きわめて歪なプロポーションをしている。
未成熟な顔に浮かぶ表情は、それが笑顔だろうが怒りだろうが悲しみだろうが、すべてが一様に人工的で、寒々しい。
ときに不安を覚えるほど淡く繊細な描線で表される彼彼女らの脆い肢体が、精密に描出される兵器(鬼頭氏は兵器マニアでもあるという)と共に、戦い、殺し合い、憎悪をぶつけ合う様には、禍々しい美しさ、グロテスクな美とでも言うべきものがアンビバレンツに同居している。
コマの全ては、どんなに苛烈な暴力を描こうともけして声高にも過剰にもならず、あくまで淡々と進行し、貼り絵の連続のような、停止した不穏な静けさがある。


ぼくには、それらが小崎さんの描き出す無時間的な空間、ピンで止められたように停止するモチーフの描出と、高い親和性があるように感じられた。



既存の二次元メディアに流通するイメージをモチーフに、それを絵画的に(けしてコンセプチュアルな目的ではなく、エリザベス・ペイトンのように個人的な偏愛から)再構築する手法はかれの創作意欲に訴えないかもしれないが、ぼくには、漫画と同じように余白を空けた広大な空間に「Zearth」が屹立し、ハイヌウェレが飛翔するさまを、核攻撃と涅見子の竜骸・シュオルによって壊滅した後の地球が、「高度」「水浴」のように描かれるさまがはっきりと見えるのだった。



小崎さんは夏にKaikai kiki Galleryで展示をするまで、ここ一、二年は科学雑誌ニュートン」で宇宙(!)や科学者の肖像を描くイラストレイターの仕事することが主だったようで、今後も方針に変更は無いのだというが、ぼくとしては、あまりにも勿体無い選択のように思える。
本人には、その絵画的能力の稀少性をもっと真剣に自覚(!!!)していただき、再び活発な制作が開始されることを願ってやまない。