「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」



ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
http://www.cinemarise.com/theater/archives/films/2008004.html



  • 前回のシネマライズ上映時には見逃していた作品。
  • 月の頭、後輩に誘われふいと気が向いて観ることにしたのだが、予想以上に濃密で刺激的な内容だった。
  • ダーガー畢生の大伽藍「非現実の王国で」の挿絵をデジタル加工技術でリミテッドアニメーションとして再現するパート、自伝を基にして書き起こしたダーガーの一人称と実際の写真や映像素材を組み合わせて生涯を再現するパート、それら2つを絡みあわせた構成はとても巧みで、かつての隣人たちがインタビューで語るダーガーの、各々で「食い違う」姿は、かれの謎めいた、怪異なイメージを魅力的に強めている。
  • アウトサイダー・アート】として俗に括られる作品とその作者は、世界の多数の人々とは「ズレた」、彼ら独自の「パラレルな世界」の価値観に基づき、純粋に「作りたいものを、ただ作りたいから作っている」という見方で語られることが多い。
  • 実際、多くの作者は精神疾患か、それに近い症状を抱えており、間違った認識だとは思わないが、ダーガーのあまりに特異な創造性は、そうした分かりやすい理解の枠からはるかに逸脱するスケールを持っている。
  • ヘンリー・ダーガーの生涯を分析した文献が外国語でどのぐらい存在しているのか把握していないし、研究者には常識的なことなのかもしれないが、「非現実の王国で」が書かれた背景にキリスト教に基づく強い宗教的な動機があるという部分には非常に驚かされた。
  • ぼくには、そこが一番印象的だった。
  • 映画でダーガーが(ラリー・パインの声で)曖昧に語るところから、おそらくかれは己のペドファイル的欲望の代償行為として、あのように長大な物語と巨大な挿絵を常軌を逸した情熱で書き続けていたのだが、同時にそこには超越者の、神の存在があったという。書く/描く行為は信仰の実践でもあったという。毎日欠かさず通っていた教会のミサにおける祈りとも通底するものでもあったという。
  • ダーガーのその行為は「世界」と関わることがなかった。ダーガーは「世界」を積極的に拒絶していた。幼児期に父親と引き離され、救貧院へと放り込まれてから死ぬまでのほとんどのあいだ徹底的に孤独だった。けれど、若いころから教会に対して執拗に孤児との養子縁組を求め、老いるまでそれは続いた。
  • なぜだかは分からないが、それも「物語」を書くことと同様に、自身の救済へとつながる信仰上の「善行」だったのだ。
  • ダーガーは「作りたいものをただ作っていただけ」ではなかった。純粋な衝動と同時に、混沌とした、澱んだ、なまなましい人間としての欲望があった。
  • しかし、いつまでたってもダーガーが報われることはなかった。
  • 晩年、かれはアパートの自室で執拗に神を罵っていたという。「罵って」いたのだ。なぜ自分は救われないのか、望みが叶うことがないのか、と。絶対者を問い詰めていた。対話と救済を求めていた。それは、「物語」の展開にも大きく干渉していた。すでに書き上がっていた「結末」が変化し、いわゆるバッドエンディングが追加されることになった。ダーガーは老齢を迎え、人生の崖っぷちにきて、神に、超越者に怒っていた。絶望していた。
  • 「かれの部屋自体が【非現実の王国】だったのよ。あの場所が、かれにとって世界のすべてだった」
  • 大家だったキヨコ・ラーナーはそう語っていた。閉ざされた「王国」に引きこもり、得体のしれない妄執の具現化に一生を捧げた、神を罵倒する老人……。
  • 物語としては魅力的なビジョンだが、それはあくまで老人が創り上げたものが他に類を見ない規模、濃密さを持っているからでもある。
  • 遺されたものが陳腐な紙芝居、落書き、御伽噺、あるいは退屈極まる「芸術」だった場合、それは単に落伍者のひとつの「記録」にしか過ぎず、その生が照らし返されることもない。
  • 以前、朝日新聞の夕刊だったかに、若い頃から半ば世捨て人的に絵を描き続けてほとんど発表もせず、病で孤独に死んだ画家の老人の回顧展がおこなわれ、友人有志によって画集が発表されたというニュースが報じられていた。
  • 老人はずっと清掃員の仕事で生計を立てていた。アパートに保管してあった、老人が生涯に描きためていた作品は、ひどく凡庸な「芸術」だった。技術も、ビジョンも、悪い意味での通俗の観念に留まっていた。日曜画家の域から一歩も出ていなかった。
  • 一生をかけた結果が、夥しい素人芸の山だったのだ。
  • その記事を読んだとき、ひどく憂鬱になったのを覚えている。創作を志した人間の生涯を賭した成果がまったく取るに足らないものであることなど、少し反芻思考すればごくありふれた話ではあるのだが、背筋が怖気立ったのを覚えている。老人には、認められない隠棲の才人というストーリーは当てはまらない。それは「悲劇」ですらない。作品が訴えかけられないゴッホは、ただの非社会的な、宗教気違いの変人でしかない。
  • 久しぶりにダーガーの圧倒的に狂った妄念世界の凄みを見せつけられると、ぼくは、感嘆と同時にどうしてもこの老人のような存在についても考えてしまう。それは多くの、未だ世間的な認知とは程遠い、自己の行為への疑念に囚われ続けながら(思考を停止して)ものを創っている人間に、ある程度は共通する感覚ではないか。