【監督失格】



監督失格」公式サイト
http://k-shikkaku.com/index.html

  • 8日の木曜、バイトが終わってから六本木へと出かけた。
  • カルトAVの雄として有名だったという監督の平野のことも、飲酒と安定剤による事故で亡くなったという女優のこともまったく知らなかったのだが、庵野秀明がプロデュースしたということで興味を引かれていた映画だった。
  • 平日の午前中という時間帯だけあってヒルズには観光客の姿も殆どなく、このような場所における「非日常」はのどかで平和な雰囲気に満ちていた。
  • 巨大で清潔できらびやかなシネコンも同じ状態だったが、しかし客席は三分の一ほど埋まっていた。心なしか、皆、居心地が悪そうに見えた。視線の先のスクリーンで上映されている光景は、あらゆる意味でこの場にはそぐわなかった。間違えている、という感じだった。あきらかに、中央線沿いに立地する映画館か、渋谷のラブホ街近くにある映画館に持っていくべきものだった。
  • どうもこの作品にはしらふで接する気になれなかったので、外で買ったチューハイをガブガブ飲みながら観ていたが、まったく酔えなかった。
  • これは果たして、上映が許される映像なのだろうか?ここまでして作る必要があったのだろうか?
  • そんなモヤモヤとした、濁った感情を反芻していた。
  • 特異な強度を持った映像なのは確かだった。
  • それは快の感情に関わるものではなかった。正視に耐えないものであると同時に、目を離させなくする強さを持っていた。死んだ女をめぐって、人々が、あまりにむき出しの、なまの感情をぶちまける姿が観る側に拭いがたい印象を刻んだ。
  • ドキュメントとしての単純素朴な完成度から言えば、荒削りという段階を通り越して非常に乱暴なもので、そこを理由に評価しない人もいるようだったが、この作品にとっては意味の無い批判だと思えた。本質的なことではなく、的が外れているように感じられた。
  • 映画は、死者とその家族と監督との極めてプライベートな関係性を、半ば露出狂的に晒すことで成立している。それは宙ぶらりんで取り残された監督の、奇妙な形をとった長い長い殯(もがり)のようなものだろう。身勝手で痛々しいリハビリのようなものだろう。そんな歪な自己憐憫に、当たり前の仕上がりを求めても仕方がない。「作りたくないんですよ、ほんとうは、こんなもの」と吐き捨てる平野の口ぶりは、「でもやってるんでしょ」という作為以上に、やはり真実味を持ってもいた。
  • 「公開が許されるのか」というのはもちろん、一時は親族との弁護士沙汰になったという、女優の遺体を彼女の自宅で発見した際の一連の記録を指す。あまりに「完璧な」アングルで放置されたカメラによって捉えられた映像は、結果的に録画停止をしなかった/できなかった平野の弟子、ペヤングマキの業深い「機転」によって、「遺書のように残される」こととなった。
  • 恐ろしい事故の瞬間を記録した映像など世の中に溢れ返っているし、最近はどっかの誰かが自殺する一部始終までネットで公開されている始末だ。そして平野は遺族からも許諾を得ている。しかし、それでもこれはあまりに生々しく、私的だ。この場面において、映画の前半部分で映し出されていた生前の女優の、自由奔放な、わがままな小動物のような魅力が、一気に負の作用を強める。あまりにも効果的な悪趣味。映画の紹介で、「正気では出来ないような編集を経て…」とあったが、確かに、これは、「正気」ではできない。
  • 「作品」のためであれば、どれほど倫理的な疑問が生まれる素材だろうが容赦なく使う、それはひとつの見識であり、表現者としてあるべき姿勢とも言えるだろう。けれど最近、ぼくは無条件にその傲慢さを肯定する気分にもなれないのだ。「監督失格」での平野に対して、「そこまでしなくちゃいけないのか」と、強く感じるのだ。
  • 「そこまで」というのは、問題の映像を使ったこと以外にもある。選択的に自分の姿をさらけ出す、むき出しにすることで成立するストリップがセルフ・ドキュメンタリーの作法であるとして、「そこまで(晒す)しなくちゃお前は気が済まないのか」ということだ。趣味的な価値判断かもしれないが、そこには、表現するということが孕む本質的な醜さ、傲慢さ、どうしようもなさが強烈に浮かび上がっている。
  • そして、平野の自己愛は鏡となって、ぼくの姿も映し出す。完成したものが胸焼けするほど濃密だからこそ、いっそう、耐え難い。
  • ネットで誰かが【衝撃的なものを観たのは確かだが、二度と見たくない】とか書いていたけれど、まあ、そんな感じ。

追記

  • とにかく、色々と「キツい」映画であることは確か。精神的に下がっている人には薦められない。あと、彼氏彼女と無残な別れ方をした人にも薦められない。観る側の過去の男女関係によっても、評価が相当に変わると感じられた。