素描:「【素描する】こと」

  • Twitterを使う頻度が増しているせいか、エントリで社会通念的な意味での「日記」をほとんど書けていない。
  • 春先にこのブログをはじめたころは、中原昌也「作業日誌」やエルヴェ・ギベール「憐れみの処方箋」(しかし、これは本当に素晴らしいタイトル)のような、日々の記録を、ぼくがまさに「生きている」ということの断面を細かく細かく積み上げてゆくようなものを書いていきたかったのだけど、現状、まったくかけ離れたものになってしまっている。
  • 今年の反省点を挙げるなら、まずはそこだ。


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  • 以前Twitterでもツイートしたのだが、ぼくのそうした欲求は、物故したドイツの偉大な版画家、ホルストヤンセンの制作姿勢をそのまま追認するようなものでもある。
  • 1988年に町田市立国際版画美術館で行われた個展「描く+刷るー和紙との出会いから ホルストヤンセン近作版画展」の図録に掲載された水沢勉のヤンセン論、およびヤンセン自身が創作上の父と仰ぐ葛飾北斎へむけて書いた言葉から、ぼくはきわめて重要な示唆を、決定的な影響を受けている(以下、引用の強調部分は筆者)。


……ここのところのヤンセンの仕事振りは、ほとんどとどまることを知らない。
矢継ぎばやに文章を書き、本を出版し、もちろん、その一方で寸暇を惜しんで素描し、版画を続々制作する。そして、その出来あがった素描や版画に、またこまごまと文章を書き入れる。それが、本のなかにもう一度複製される。どこまでも、繭が糸を吐きつづけるように、おわることなく、それは連なってゆく。そして、そのどれをとってみても、そこにはまぎれもなくヤンセンがいる。


…刻々と変化してやまない意識のありようと職人的な手わざが、ひとつになるのは不可能事であることを承知のうえで、限りなく接近し、ものぐるおしく旋回する。
用意周到に準備されるもったいぶったモニュメントを真っ向から否定して、身近にあるどんなものからでも(たとえば、使用済のコンドームもヤンセンの手にかかると、ひなげしのように愛らしいコラージュにかわる)、作品は生まれ出る。


……「わたしは、たんに素描家にして素描家にして素描家であるにすぎません」素描することーー身のまわりにおきるあらゆることを素早く描き出すこと、そのためには一世一代の大傑作などを悠長に描いているひまはないこと、そこに「ほこり」にまみれていない一瞬の生命の光彩を、そしてその暗がりをかすめとること。それでも足りなければ、そこに自分のもてる言葉のすべてを投げ入れること。それらが美しく綴じられたとき、ヤンセンの本が生まれる。


……すべてを素描することが衝きうごかしている。それは人生をまるごとその中に封じ込めたいという、いわば不可能で無謀な衝動なのだ。だから、ヤンセンは素描しても、文章を書いても、本を出版しても、いつもなにか不満げにぶつぶつつぶやき続けている。あまりに文学的だ、というひともいるかもしれない、しかし、ヤンセンは、それでもまだ文学が足りない、とこたえるだろう


水沢勉 「襞は幾重にもーホルストヤンセンの近作版画ー」より


……この老人は、分類するのではなく、世界をまるごと素描し自分のなかへとむさぼることによって、素描の伝統にふたたび「自然」をもたらしたばかりでなく、そのことによって自分のながい人生を一冊の分厚いなぐり描きのメモ帳にしたてたのだ。
毎日、いや、おそらく、見つめることも素描することに数えられるなら、毎時間、かれはなぐり書きをした。そして、くさぐさのものをいくつかの本にまとめた。本の中で素描し、考え、想を練る。しかり!わたしもそれが知りたい。素描された本の中の人生を。


ホルストヤンセン「スヴァンスハルの逆めぐり」(「襞は幾重にもーホルストヤンセンの近作版画ー」から引用)

  • ヤンセンが「この老人」と呼ぶ葛飾北斎とかれ自身のありようは、創作者として意識上の明白な差異があった上でのヤンセンの憧憬に過ぎないが(ヤンセンの近代的な自我は激烈であり、まさに【あまりに文学的】なものである)、「素描」という行為への強い意志は確かに共通している。
  • じゃあ、ぼくが「素描する」ことは?同じことだ。
  • 描画と、「言葉」というツールの違いはあっても、「見つめること/観察すること/解釈すること」、それをもとにドローイングすること、「世界/セカイ」を切り取ること。
  • 「一世一代の大傑作」でも「用意周到なモニュメント」でもなく、できるかぎり最小限であること、断片的であること。
  • 「繭が糸を吐きつづけるように、おわることなく」それを繰り返し、反復すること。
  • 「いつもなにか不満げにぶつぶつつぶやき続ける(ツイート!)」こと。
  • 「自分のながい人生を一冊の分厚いなぐり描きのメモ帳」にすること。
  • ……いまは、単独エントリだということを意識すると、構えてしまいがちになっている。
  • 書きこぼしたことが次から次へとたまっていっている。自分が自分を裏切っている。
  • もう少し、ツイートのような意識で書くことが必要なのかもしれない(じゃあツイートを転載しろよ、という話しになるかもしれないが、140文字制限の縛りはやはりきびしい)。
  • ぼくに「思想」と呼べるようなものはない。
  • ある「風景」や「光景」を想像/創造し、見つめ、記録し、描き出す欲望があるだけだ。
  • ぼくが書く「小説」も、今後、そうした方向性をとるように、なるだろう。
  • けっきょく今年は、ずっと前から考えていることの方向性はクリアになったが、じゅうぶんに実践しきれなかった。来年は、その輪郭を、形を明らかにできれば、と思う。