(続)至福のアフリカン・ルンバ
※ 無用なお節介でしょうが、このエントリはリンクした動画を巨大音量でかけながら読むべきです!
- 最近、本文にリンクしたヴィクトリア・エレイソンのライブ音源を繰り返し繰り返し聴いている、というか、観ている。
- いずれも無条件にぼくの「からだ」を高揚させ、芯から元気にしてくれるすばらしいドラッグ(音楽)だ。
- 抑鬱気味の人間が見たら、「ああ、俺の悩みなど、どうだっていいことなのだ。どうだっていいことなのだ。悩む必要すらないことなのだ!ああ、ああ!」と思うかもしれないし、あるいは逆に、その過剰さ、無神経さにウンザリして、怒り出すかもしれない。
- それほど強烈に、かれらの演奏は湿った負の感情を脱色し、空の彼方に消し飛ばす。
- リンガラというアフリカン・ブラック・ミュージックが持つ最大の美質は、その突き抜けた「あかるさ」だろう。
- 「あかるい」、というと曖昧でアホのようなら、ポジティビティと形容してもいい。音楽形式の手本となったキューバのポップスとも全く違う(キューバ人は、感傷性、センティメントも表現の要素として重視する)し、他に類を見ない、リンガラ独自の要素だ。
- 聴くときの体調にも左右されるが、質の高いリンガラの、このポジティブさが放つエネルギーを浴びること、それはぼくの「からだ」にとって最高の音楽的快楽のひとつである。
- 動画で演奏しているエメネヤ・ケステール率いるヴィクトリア・エレイソンは以前のエントリでも紹介したが、シーンとしてのリンガラが完全に沈滞している21世紀になってもこれほど密度の濃い演奏をしていたとは、正直驚かされた。
- 曲は過去の焼き直しだし、音楽そのものの幅や深みは薄れていて、進化も止まっているが、それでも終始タイトに「揺れる」クラーベ・ビートに、独特の高揚感を持つコーラスとギター&シンセのメロディが絡み合い、加えてそこにダンサーたちの、はっちゃけた、エネルギッシュなパフォーマンスが展開される光景はまさに圧巻の一言だ。
- 曲の展開で行き詰まったヴィクトリアはダンサーたちによるスペクタクルとの連動に活路を見いだしたようだが、このライブではそれが見事に成功している。
- コンゴのダンサーのスタイルは実にユニークで、型破りだ。
- 一見「かっぽれ」のような動きを連想させるが、しかし、それにしてはむちゃくちゃに手足を痙攣させすぎであり、酔っぱらいがのたうちまわっているかのようであり、四肢がばらばらに跳ね回って収拾が付かなくなっているようであり……
- スクエアでリニアな現代的ダンスに慣れている目からすると、その動きやダンサーたちの規律のあり方に相当な違和感があるだろうが、彼彼女らの身体が持つ能力的な卓越性は明らかであり、躍動する肉体が発する「あかるさ」は、繰り返すが、ただごとではない。
- ヒップホップとも、サルサとも、レゲエとも、キューバン・ルンバとも、そして農民のかっぽれとも違う群舞の、この陰りの無さ、このカラフルさは非常に独特だ。マッチョな暴力や性的な雰囲気を強く感じさせるダンスがネグロイドには多いが、リンガラにそれらの要素は薄い。ものによっては露骨にセックスを連想させる動きもあるが、そこにインビさやワイセツさを感じることは、ほとんどない(セクシャルなダンスを特徴とするキューバンは、その点でだいぶ異なる美学に支配されている)。
- 激しいビートの上で自由に跳ねるダンサーたちの姿は、観ているだけでこちらを心から浮き立たせ、楽しくさせるポジティブなエネルギーに満ちている。
- 本当に、「楽しい」とか「気持ちいい」としか言い表しようがなく、人の「からだ」を重苦しい日常の負荷から解放してくれるのだ。
- いまも、いつ何刻、一触即発の状態に陥るか分からないコンゴという最悪の地獄から、これほど「あかるい」音楽が生まれてくるパワーがあることには驚く他ない。
- 斜陽ニッポンで生きる我々にも、こうして忘我になれる「からだ」の要素がもっともっと必要なのではないか。自殺するよりは、ノーテンキだろうが何だろうが、踊れ、踊り続けろ、ということだ。