いま、SPEED、

  • 前回のような、無駄にマニアックな音楽に関するエントリを挙げた直後にこんなものを書くと、音楽的人格の統合姓を疑われるのだろうか。
  • 年末に何人かの友人たちとSkypeをしていて、「十代のときって、アイドルとか音楽とか、なにが流行ってた?」という話題が出た。
  • ぼくは90年代にティーンエイジャーだったが、高校に入って村上龍を読み出し、バンドをはじめたことが切っ掛けでヘヴィメタルキューバ音楽に傾倒するまで、音楽そのものへの関心はそれほど強くなかった。なぜか短期間だけクイーンやビートルズなどごく一部の古い洋楽と尾崎豊に入れ込んだぐらいで、中学のころは「バラエティとか音楽番組ばかり観るやつらは衆愚である」という短慮かつ偏狭な政治姿勢を表明していた、実にわかりやすいマイナー志向の教室マイノリティだったのである。
  • が、そうは言っても、小室ファミリー安室奈美恵が毎度、常軌を逸したような枚数のヒットをたたき出していたことぐらいは知っていたし、街中のあちこちで暴力的なまでの頻度で鳴らされていた曲は耳に刷り込まれているから、当時のヒット曲に「ああ、なんか聞いたことある、懐かしい」という感情くらいは喚起される。
  • 「SPEED」も、そのうちの一つだった。
  • 彼女たちがデビューして、ちょうど人気が急上昇していたころだったか、給食の時間(!)に、「STEADY」が何度も何度も、何度も流されていていたことを鮮明に覚えている。
  • ぼくにとって、SPEEDと言えば、この曲だった。
  • 「せーかいーじゅうでたったーひーとりのーあーなたとーでーあえたーことー」という、島袋と今井のカン高い声が耳について離れなかった。それ以後の、もっと大きくヒットしたバラードの数曲は、まるで印象に残っていない(このエントリ用に改めてYouTubeで検索してみたが、バックトラックから歌までひどく安っぽく趣味の悪いもので、聴いていられなかった、、が、女子中学生にはあれこそがバカ受けしたわけだ!、、、信じられない!)。




まぶしさと土下座

  • 「ああ、流行ってたなあ」
  • そんな程度の存在でしかなかったのだけど、チャットの話題で急に懐かしくなって(曲は知っていたが)はじめて観てみた「Body & Soul」のPVは、なんというか、ものすごかった。 ものすごくびっくりした。 


  • 「ええっ、こ、、、子どもじゃんか、これ!」
  • 「子ども」、ってそりゃ実際子どもだから当たり前だろうという話だが、メンバーとほぼ同年代だった(年度は違うが、学年的には上原多香子と同じ)ぼくは、人気絶頂期の彼女たちが連日メディアに出ていても特に違和感を感じることは無かったのだけど、いま、三十手前の目で観ると、こんな幼い子たちに、こんな事させていいのか、と頭のワルいPTAみたいな不安を覚えてしまうぐらいに、若い。


「おれ当時は大学生だったけど、その年でも、SPEED好きとかって言ったら自分がロリコンだって認めるようなもんだったね」
「うわ、ついに小学生出してきたか!マジかよ、ってびっくりしたもん。アジア圏以外だったらちょっと倫理的にアウトじゃないかい、あれは」

  • 年上の友人たちは、そんなふうに回顧していた。
  • Youtubeのレビューでも「SPEEDってグループ名で、シングルがGo! Go! Heavenだあ??ちょwwwwwwおいwwwwwwww」みたいなコメントがあったが、Body & Soulの歌詞をよくよく読んでも、確かに、デビュー直後は若干キワモノ路線で売り出そうとしていた、という一部の風説に強い説得力を感じる。
  • 「そんな見方するなんて最低でありキモい」という向きもあるかもしれないが、アイドル産業なんてある意味みんな「最低でありキモい」ことなんて、いまの肥大して腐臭を放つAKB48の人気をみればすぐに了解されることだろう。
  • ただ、キモい大人のキモい意図やキモい見方がどうであれ、この時期の4人がステージで放っている「若さ」の圧倒的な煌き、まばゆいばかりのオーラはたいへんなものだ、と思う。大半のアイドルが多かれ少なかれ抱えているような陰鬱さや淀みが、まるで存在しない(ように見えるだけなのだが、それが重要だ)
  • なんだか、もう、まぶしすぎて目が潰れそうであり、その伸びやかさと健やかさに、ぼくは直視しているのが辛くなってきさえする。「若さ」、ということのいちばん純粋で理想的な何かが顕現しているかのような歌い踊る4人の姿に、見ている自分が恥ずかしく猥褻なイキモノのように感じられ、思わず土下座しそうになってしまうのだ。
  • ほんと、舞台を降りたあとのインタビューなどでは普通の小中学生と変わらない(ように見える)というのに……




「時代の体温」

  • 十何年か前に世田谷美術館で開催された「時代の体温」展のカタログで、キュレーターの東谷隆氏が確かSPEEDについて書いていて、詳しい内容は忘れてしまったが、「あきらかにとても幼い彼女たちが、脆そうな躰をふりしぼるように全身飛びはね、やたらキーの高い歌を笑顔でこなすその健気さが云々」(大意)といった一文があったように記憶している。
  • たしかに、あきらかな「子ども」の精一杯なパフォーマンスという「けなげさ」は、あのときのSPEEDが持っていた特異なムードに関係があるように思う。
  • ただ、それが例えば優秀なチャイドルの、操り人形のように不気味な雰囲気と表裏になった「精一杯」「けなげさ」に陥ることがなく、飛び跳ねる彼女たち四人の、「重さ」から切れたような「からだ」の自由さとしなやかさに変わっているのはなぜだろう?
  • それが実力ということなのか、SPEEDが「時代の体温」だったからなのか、その辺りはよくわからない。

「消滅」

  • どんな輝きも、ずっと保たれることはない、、、のは少しでも時間軸でグループやバンドを捉えられる人なら当然すぎるほど当然の共通了解だと思うが、年齢から生まれる「なにか」を担保にしていた場合、それがかき消えたときのギャップは、より辛いものになる。



  • 上記リンクのように、一昨昨年に再結成したSPEEDが最悪だとまでは言わないが(本当は言いたいが)、この14年で、明らかに苛烈なものが彼女たちを通り過ぎてゆき、「なにか」が跡形もなく、永遠に失われてしまったことは確かだ。
  • それぞれがごく普通に美人になり、力量だって感じさせるとはいえ、振り上げる四肢は終始「重さ」がまとわりつき、表情は生気に欠け、かつての躍動感はどこにもない。
  • 時間は残酷だなあ、とあまりにも凡庸なことしか浮かばない、そんな光景である。
  • いまって、四人でやってる意味が「とりあえず(低空飛行でも)安定するから」という以上は感じられず、というかむしろマイナスになっている気がするのだけど、いつまで続けるんでしょうね?バラバラになった方がポジティブな結果を生むと思うんだけど、そうは言っても「やめられないとまらない」のが再結成というものだろうか。
  • 今後に注目、、、、は、あまりしない。