第三回新宿文藝シンジケート読書会メモ「山谷崖っぷち日記」1/2

  • 今日は18時から歌舞伎町のルノアールで読書会がある。
  • 課題図書は、今回もぼくが推薦した。大山史朗「山谷崖っぷち日記」だ。
  • 第9回の開高健賞を受賞した怪作で、作者は軽度のうつ病と集団生活への不適応から日雇い労働者に転落し、長く山谷で暮らしている。
  • この一作以前も以後も、公的に発表したテキストはまったく存在せず、おそらく、いまは路上生活者をしているか、あるいは福祉によって生活保護受給者になっているか、最悪、亡くなっている可能性もある。


  

  • 労務者による山谷生活の日記というと、これまでにも数多く出版されてきた平凡なルポルタージュ本が連想されるかもしれないが、この作品はそんな退屈さとはまったく無縁な、優れた「随筆」であり、日記文学と言いうるだろう。選評では方丈記のような精神をも感じさせる、と書かれていた。
  • 静謐な文体に加え、「つまるところ、私は人生に向いていない人間なのだ」と言う一文に代表される独自の人生への諦念がこの作品のカラーを定義付けている。
  • 以下、会の前に、ぼくが心に止めた箇所をいくつかラフに引用して、メモに代えたい。
  • ※ 以下、2/2へ続く

( 第三回新宿文藝シンジケート読書会メモ「山谷崖っぷち日記」2/2 )


少年期から、自分がまともな大人の世界の中で生きていけるとはどうしても思えなかった。
社会に出て仕事をもち、一人の女性と家庭をつくって子供をもうけるというような生活が、私にも訪れて来るだろうとは、心の深い部分ではどうしても信じられなかった。
そういう生活がしたいかどうかというよりも前に、そういう生活が自分にはどうしても現実感をもっては感じられなかった。
自分は人生に向いていないという深い確信があった。この確信を振り払うように、ある時期までは社会への(つまり会社への)過剰な適応努力を続けたこともあったわけだが、結局その努力も生理的に限界があったことがわかり、むしろホッとした気分になった。
そうなのだ、あんなところ(会社や社会)が私の生きる場所であるわけはないのだと、深く納得するところがあった p169


最終的に山谷に来る頃には、このように結論づけるようになっていた。
「つまるところ、私は人生に向いていない人間なのだ」と。
後になって精神医学の本などを読み、私の症例は軽度の鬱病というのが最も適切なのではないかと思うようになったのだが、この認識も、私をある種の解放感をともなう諦念へと導くのをたすけてくれたように思うのである。
つまり、私は割合容易に、客観的には不遇きわまる自分の人生に、見切りをつけることができたように思うのだ。
まともな職業生活を続けられず、結婚もできず、中年を迎えようとしていた自分の人生と、私はその頃、この諦念によって割合容易に折り合いをつけることができたように思う。
このことは、裏面から言えば、私は自らの不遇感とさえまともに向き合えないほど生命力が希薄なのだと言ってもよいのかもしれない。弱さからくる、一種の防衛機制としての諦念によって、私は私のような立場の者に襲来してしかるべき焦燥や不安や落ち込みから逃れようとしていたのではないだろうか。p13


こんな生活が快適なものであろうわけはないが、私は、私が辿りついたこの生活に対し、何とかして運命愛に近い態度をつくりあげようとしている…(略)…私は、自分の身体と心以外のものを運ぶことのできる容器としてはつくられていない。
私の身体と心以外の重荷を担うことに、結局は耐えきれなかっただろう。
この重荷のために、私の精神は結局どこかで押しつぶされてしまっていたであろう…(略)
…私のようにつくられ、私のようにできあがってしまったものは、いかなる時代、いかなる地においても、結局、今、私が送っているような生活、今、私が居るような場所に辿りついたに違いないのだが、ここに私が来るまでの過程で、私を原因として不幸になる人々を極少化(両親はしかたあるまい)し得たことを、私は内心ひそかに誇ってもいいのではないか。
こんなふうに考えようと努めてみるのだ。私は、私に見合った生活に辿りついている。
これには何の不足も過剰もなく、何の不満を抱くいわれもないのだ。
私はいつもこの方向に私の想念を誘導しようとしてきた。これからもこの方向に自らの想いを誘導していくつもりだ。できるならば、このような想念の中でまどろみながら、何とか死までなだれ込んでいきたいものだ。
すでに初老といっていい年齢の私にとって、これはもはや祈念にも等しい願望なのである。
どんなことがあっても、このような場所に辿りついた私の宿命に対し、絶対に悔恨なんかは抱いてやらないつもりだ。
p28-29