西へ2010。犬島と維新派


1


◆ 徳山で回天を見た翌日、つまり、7月22日の14時前、ぼくは岡山駅の東口にある桃太郎像前に座っていた。人を待っていたのだ。
◆ 待ち人と一緒に、瀬戸内海に浮かぶ犬島で、維新派という奇妙な劇団の公演を観ることになっていたのだ。


◆ 待ち人の名前は、ナカシマさんと言った。これまで、直に会ったことはなかった。
◆ 四年程まえ、ぼくがもっともキューバ音楽にのめり込んでいた時期に、ある熱心な女性のキューバファンが運営するウェブサイト上で知り合った。ナカシマさんはWebへの造詣がとても深く、本人曰く「システム屋のまねごと」をしていた人だった。
◆ かれもキューバに滞在してぶらぶらと音楽を聴いて過ごした経験があり、あの社会の捉え方に、ぼくと近いところがあった。加えてお互い、かつて村上龍が狂奔的に行っていたキューバ音楽と文化への啓蒙活動によって、当時あの国で最高のオルケスタの一つだったエネヘ・ラ・バンダを知り、魅せられた過去があった。
◆ ナカシマさんは大阪に住んでいた。今年の旅行を計画するとき、それを思い出した。
メールしてみると、7月の後半、維新派を観るために岡山沖の島へ行く予定があり、都合が合うなら一緒に行かないかと誘われた。ぼくは演劇そのものに興味は無いのだが、維新派は知っていたし、旅の途中に野外で「前衛」を見るのもまあ、悪くはないかと思われた。


◆ その前夜、徳山でのことに懲りず、岡山に住む内科医の友人Tさんと1時半ころまで深々と酒を飲んでいたのだが、待ち合わせは午後だったため今度はのんびりと起きて時間まで岡山城などを見物がてら駅前や市内を散歩していた。全国で比較すれば岡山も地方都市に過ぎないのだが、徳山から移動してくるとまるで別世界、文句の付けられない大都会だと錯覚してしまいそうになった。


◆ 午後の太陽は昨日よりさらに激しく、容赦なく照り付けている。
短時間とはいえ、日差しの真下で待つことに危険さえ感じはじめたころ、ナカシマさんは時間ぎりぎりにやってきた。
◆ すさまじい暑さのため桃太郎像付近にはほとんど人がいなかったから、するするとこちらに歩み寄ってきた小柄で細身な男性がナカシマさんであることはすぐ分かった。Web上で見せる、どこか浮世離れした生活臭の無さから予想していた姿とはだいぶ違ったごく普通の雰囲気、というかむしろ、質素ではあるが小奇麗な身なりからはスマートささえ感じ、正直ぼくはホッとしていた。
◆ これまで出会ってきた、キューバに深い関心を持つような人たち、特に男たちはみな一癖も二癖もあってとてもアクが強く、第一印象が柔らかいとは言い難い人間だった。
興味深い内面を持ってはいたが、そういう人たちと二人で長時間行動するのは非常に疲れることでもあった。比べれば、ナカシマさんは良い意味でとても普通で、平均的な社交性がしっかりと存在していたのだった。


◆ おーとかあーとか言いながら互いのイメージを修正し、初邂逅の面白さを確認していると港までむかう特別直行バスの時間が迫ってきていた。
まだそれらしき車両は到着していなかったが、そろそろ並びますかと話しあっていると、半袖ワイシャツのクールビズ着を汗まみれにし、テンパった中年の男がこちらへ走ってくる。
◆ 「犬島行きの船が出る港まで行かれる方ですかあ?」
まったくその通りだとぼくらが答えると、かれは朝方に発生した交通事故のせいで渋滞が起き、バスが時間通り動かないと告げた。だから、今からあなたたちを乗せて自分のワゴンで港までむかうことになったという。


◆ 他に数人いた同じバス待ちの客も一緒に、ぼくらは近くのコンビニから男のワゴンに乗り込み港へ走り出した。
◆ なんだかいきなりイレギュラーな展開だなあ、でもバス代得したよねー、などと苦笑しながら、移動の間はずっとキューバの話をしていた。
◆ あのとき掲示板で暴れてた日本人の誰それはハバナでどうだったとか、ハバナのあそこで自分はどうしたとか、あのバンドはセントロのあのクラブで演奏してたが酷かったとか、滞在中はどこに住んでいたかとか、状況はどうだったかとか、恐ろしくスムースに会話は展開した。
◆ ぼくらの間には某ウェブサイト時代やmixiを通して互いに共有する情報が多く、世界認識に関しても事前了解されている部分が多かったとはいえ、会話のテンポであるとか間であるとか、そういうフィジカルな部分においても初対面でここまで気疲れがないのは稀なことだった。幸先のよさを感じさせる雰囲気だった。


◆ すいません、も〜いやホントこんなことホント予想してなくていや料金はもちろんいりませんので、、、と運転しながらも焦り続ける男が運転するワゴンは何事もなく市内を抜け、「宝伝ー犬島」で運航する港に着いた。
◆ ぼくらはそのままフェリーで犬島に渡ることができた。フェリーの中でも相変わらずキューバの話をした。その啓蒙によって渡航を実行した人間同士として、村上龍の喧伝していたキューバの有り様がいかに現実の土地と乖離し、プロパガンダ的であるかを指摘し確認し合っては、「どんだけ龍に固執してんだ俺ら」とゲラゲラ笑った。



2


◆ 犬島での維新派公演は、今夏の美術イベントで最大の話題である、瀬戸内国際芸術祭の一環として行われるとのことだった。
◆ 犬島自体が芸術祭の会場のひとつでもあり、いくつも作品が存在するということだった。なんと、ぼくはそれを桟橋からの看板で見るまで知らずにいた。前夜、Tさんと飲んでいるとき「絶対行かないっすよあんな下らねーもん」などと言っていたが、一夜にして完全な口から出まかせになってしまった。
◆ こんなこと、大学時代だったら考えられなかったものだ。いま、ぼくの現在進行形「美術」の、その全体像への関心は低下しきっている。とりわけ、作品概念を拡大したあげくの成れの果てに、気持ちの悪い公共事業みたいな有様になってしまったものには、「土地と対話」した「環境芸術」などには、ごく一部の例外をのぞいて、もはや何の興味も無かった。あくまで個人的な問題だが、それらが目指すものに、価値を感じることが出来なくなっていた。どれもこれも、単に自然(本当は、なにが「自然」かは、無前提に言えないのだけど)と風景を獰猛で強欲な自意識でもって陵辱した、滑稽でかつ醜悪な冗談みたいだった。


◆ フェリーの他の乗船客は芸術祭を目当てに来た人間もいたのだろうが、ナカシマさんは「大部分は維新派を見に来たんじゃない?追っかけも多いからね」と言った。公演開始まではだいぶ時間があったけれど、とりあえず会場まで行ってみようかということになって、風景を眺めながらのんびりと舗装路を歩いた。
◆ まだまだ日差しは強かったが、むっくりと膨れた入道雲が美しいコントラストを描く広い空に、刈りこまれた芝、凪いだ海とわずかに吹く風が織りなす景色には乾いた爽やかさがあり、熱波による不快感を和らげていた。







◆ 歩きながら、ナカシマさんは横目で周囲を見ながらニヤニヤ笑う。


「そうそう、維新派の熱心なファンってね、サブカル女子っぽい子が多いんだよー。サブカル女子
それを聞いてぼくは吹き出した。
サブカル女子!まじで!ああー、アングラ演劇って感じだから?」
「そこまで行かないで、もうちょいスイーツ(笑)な子がメインかな」
それを聞いて、またもぼくは吹き出した。
「スイーツwwww久々聞いたそれ!サブカル女子とスイーツ(笑)って対立しそうだけど」
「ん〜じゃあサブカル嗜好のスイーツ(笑)って言えばいいか…。あるいはそーだな、ロハス寄りと言うか。地味ゆるふわでアロマとかホメオパシーとか…」
「それだとスイーツ(笑)ってよりは、ロハスっぽい森ガールな印象かな」
「ん〜じゃあそっちなのか…。ブログで公演の感想とか読むとスピリチュアルだったり、宇宙とか言い出す子も多いよ」
宇宙!wwwwww宇宙ですか!」
「言葉足らずなのかな、すぐ宇宙を感じた!とかね…」
「宇宙を感じた!うお〜〜なんか面白いな〜その話」
「演劇はぜんぶ嫌いだけど、維新派だけは別っていう人も少なくない。もちろん、暗黒舞踏とかアングラ演劇の流れでついたファンもいるだろうけどね」
「なんか【アート】のファンと被ってそうですね。実際、【アート】なファンを狙ったこの島での芸術祭の一環として公演をやるわけだし」
それを聞いて、ナカシマさんが怪訝そうにした。
「アートの人って、スイーツとか森ガールとかサブカルに近いの?もっと反体制的なノリだと思ってたんだけど」
ぼくは強引に、まとめて説明をする。「その辺り、勢力図の線引きが難しいっていうか、この場合の【アート】が示す意味はナカシマさんがイメージしてるものとは違うっていうか…。ナカシマさんのイメージは【美術】に近いかな。例えば、仮に【美術】な意識を持って作られた作品や展示であっても、【アート】という切り口で語れるだろうと判断されれば、ダ・ヴィンチだのブルータスだのはもちろん、カルチャー系の女性誌にだってガイドが出たりしますよ」
「ほ〜」
「この瀬戸芸だって、"アートで知的"な夏を過ごすのもいいかも?みたいな痛い切り口で特集されてますよ」
「ああwwwなんかそう言われるとわかる」


◆ 話しながら無遠慮に辺りを見回すと、歩く女の子たちの服装は確かに、森で、サブカルで、ロハスで、「女子」、しているのだった。びっくりするくらいに。思わず吹き出してしまいそうなくらいに。
◆ 維新派の公演がそのような人たちに需要があるとは意外なことだった。
そして、少なからぬ数の、呑気な顔した中高年のおじさんおばさんたち。維新派を外側から眺めた印象は山海塾大駱駝艦など暗黒舞踏との親和性を露骨に感じさせたから、観者もそれに伴ってオルタナティブで、暗くて濃い、情念をもてあまして鬱々とした連中ばかりなのかと思い込んでいたのだけれど、どうやらそれは誤りだったようだ。







◆ 十分も歩くと維新派の巨大な舞台を目視できる入り口に着いた。
◆ この劇団は野外公演を行う際は、毎回必ず、巨大なセットを自分たちで組み上げるのが特徴だという。視線の先に屹立する巨大なスロープと、殆ど芯だけの仮組みに見える廃墟めいたセットは、それを聞かされなければ、自前だとはにわかに信じ難い巨大さだった。あれを全部スタッフだけで組んだということか?本当だろうか?(施工のプロが複数いるにしても、重機の確保から何から、大変なことです)
◆ 受付でナカシマさんが帰りのフェリーの手続きなどをしている横で、ぼくは日に焼けて赤銅色の肌になりつつある瀬戸芸スタッフの男女を観察した。
◆ 「こえび隊」と呼ばれるスタッフたちは、新潟の越後妻有でやっているトリエンナーレ(ぼくも多摩美のころに堀浩哉教授のパフォーマンス出演者として参加した)で奴隷のように酷使されていたボランティア集団「こへび隊」そのままだった。
◆ 名前だけでなく、必死ながらもどこかモタモタ、モタモタとした手際悪さと、地に足のついていない素人くさい立ち居振る舞い、垢抜けない仕草…。NPO的とも市民団体的とも言いうる独自の雰囲気…
◆ どこからどう見ても、なにからなにまで「美術」の所作だった!ぼくは嫌悪感と共に懐かしさを覚え、苦笑いを抑えることができなかった。ああ、美術だなあ、と。







◆ 時刻は16時になろうとしていた。
◆ 会場が開くのは18時だったので、それまで島をぶらつくことにした。
◆ 島内の地図など持っていなかったが、行き当たりばったりに、海岸の横から住宅がある方へと歩いてみる。もうあまり人は住んでいない*1ようで、コテージ等が整備された港付近以外は、瓦葺の古い民家がぽつぽつとようやく建っているだけの、管理された自然公園みたいだった。幸い、辺りは芸術祭の「作品」にも侵食されておらず、とても静かで、その穏やかさはぼくを安堵させた。少し奥に入ると急に木々の生い茂りが激しくなり、緑濃い葉が頭上を覆う雑木林の中に舗装路が整備されている。木々を遮るフェンスが据えられ、そこから遠く向こうに異様な建造物がまっすぐ屹立しているのが眼に入る。
◆ 島のシンボル、廃棄された精錬所の廃墟、煙突の残骸だ。








◆ なんの前触れもなく、唐突に現れる廃墟、近代の屍…
◆ 当時はごく普通の眺めとして存在しえたのかもしれないが、いま、何も遮るものなく広がった空を鋭利に切り裂くこの奇妙な物体を遠くから眺めると、地上からにょっきと戦艦の主砲が生えているような、あるいは突如として天から正体不明の破片が降ってぶっすりと地に刺さったかのような強い違和感を感じる。
◆ 精錬所の廃墟を横目にそのまま進むと、「岡山市犬島浄化センター」と表記されたまるでバイオ・ハザードにでも出てきそうな怪しい建物や、小さなキャンプ場、同じように小さな海岸などを目にすることが出来た。一時間も歩けば、島の小ささを実感するには十分だった。








◆ 港付近まで戻るとき、古く小さな雑貨屋で休息をとった。
◆ 寝椅子に座った老人と、その妻である老婆が、自宅の玄関先にささやかな商品を並べているだけの店だった。
◆ 空いたスペースに座ってアイスを食べていると、一人の老人が店に入って来た。
◆ その顔を見た途端、ナカシマさんが「あ」と驚いた顔をして、会釈をした。麦わらを被った老人はそんな反応に慣れているのか、小さく「どうも」と会釈を返して帽子をとり、「おじー元気だった?」と言って向かいに腰をおろした。老人と妻がニコニコしながら、ええ、ええ、先生と返した。
◆ 「維新派の主宰をしてる、松本雄吉さんだよ」
ナカシマさんがそう耳打ちした。ぼくは少しびっくりして、目の前で笑っている白髪の老人を無遠慮に眺めた。松本氏の雰囲気はどこか、ぼくが大学で文学の手ほどきをうけた青野聰先生に似ていた。飄々としていながらも、根っこの部分で知性と品を感じさせる佇まい。
◆ 「先生ですよ、先生、今日のほら、お芝居の」
老婆が笑いながらぼくたちに松本氏を紹介しようとした。はい、存じてます、維新派は何度も見ていますから、とナカシマさんが応えた。「あ、じゃあ、今日観に来てくだすった方?」松本氏がこれはこれは、といった感じで改めてこちらに会釈をする。少しの間、ぼくが東京から18切符や高速バスを使って移動して来たことや、そろそろステージ近くで屋台村が始まるから寄ってみるといい、などと松本氏と話をした。「いとうせいこうが来たかと思ったよ!」とぼくを評していたのが印象的だった。
◆ 一枚写真でも、と思ったが、いいよいいよとナカシマさんが照れくさそうに拒否したので、止めておいた。







◆ さきほど手続きをした入り口まで戻り、屋台で少し腹ごしらえをすることにした。
◆ 維新派は野外公演の際、ステージ付近に屋台村を併設することも知られていた。
◆ 猥雑性の雰囲気、これも「祭り」の演出なのだろう。宮台真司維新派について書いたblogにもこのことが触れられている。


維新派を貫く「縦の力」と眩暈 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=42


◆ 実際の屋台村は、事前の予想よりはよりはだいぶ規模が小さく、どことなく大学の学際を連想させるアマチュアくさいものだった。売り子はすでに酔っ払っており、精錬所跡地に設営された小さなテント群の中、レンガに腰掛けながらモソモソと安っぽい屋台飯をつつく観客たちのありさまはなんとも貧相だった。もちろんぼくらもその一部であり、まったくもって、みすぼらしげな男ふたりだった。
◆ 「おれにとっては毎回、屋台とかどうでもいいんよね…。何も面白くない。たいした屋台じゃないしね」
ナカシマさんはそう苦笑していた。
屋台村の中ほどにある小さなステージでは、地味な日本人デュオが地味な多国籍ふうみのジャズを演奏していたが、長々と聴いている気にもならず、ぼくらは舞台の方に移動し、席へ座ることにした。










◆ 舞台(劇場)へとつながる巨大なスロープの迫力と見晴らしはすばらしかった。
◆ 「いちおう、お願いします」と歩き出す前にスタッフから指示され、「なにか事故が起きた際は自己責任」という旨の文言にサインをさせられた。確かに足場は絶対の安定性からは遠く、運悪く地震でもくれば一瞬ですべてが崩壊し、登っていた人間は骨組みと共に墜落するだろう。
今回は維新派単独公演ではなく、瀬戸芸の一部ということもあって、「劇場、舞台も美術作品」だとして、かなり造形的な部分を意識したのだという。そんな状況が醸す非日常感は、舞台を見る、ということへの決まりきった意識を刷新してくれるものと思えた。このスロープ自体が、非日常への誘導路を超えて、欠かすことのできない一つの「部分」なのだ。
◆ メイン舞台の床は建築現場の足場板が並べられており、数千本の丸太で組まれているとのことだった。
「借景/背景」としてすぐ後ろにそびえる精錬所の廃墟とも相まって、瓦礫の中から立ち上がった崩壊の建築とでもいった趣が感ぜられた。
席は全て指定だったが、木材で階段状に作られた客席をテープで区切っただけのもので、非常に狭かった。座る際のクッションシートのようなものは配布されたが、どうやら尻の苦痛に耐えながら二時間を過ごさねばならなそうだった。
客席は、開演までに8割くらいは埋まっただろうか。おじさんおばさんも目立つ、のんびりとした雰囲気。カルトな演劇集団を熱狂的に支えるファン、といった空気は皆無だった。
そして白塗りの顔とエスニックな衣装を身に付けたスタッフが数人舞台にあらわれ、ステージが始まった。

3

 
◆ 「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」*2と銘打たれた今回の公演は、「<彼>と旅する20世紀三部作」の完結編なのだという。太平洋と東南アジアに漂流、あるいは移民して渡った日本人たちを、戦争という軸が貫くことで物語が展開していく。
◆ 世界史的な事実を教条的にのべたてる長台詞と抽象的で象徴性の高い断片的な単語が巧みに組み合わされ、その上にエレクトロかつノイズでもあるような音楽が大音量でかかり、多数の役者が、変拍子にあわせて一糸乱れぬまでに組織された奇妙な舞踏?を絡ませる有様は非常に独特なものだった。特に、役者全員が恐ろしく訓練された舞踏?には驚かされた。
◆ 維新派は明確な台詞を用いない、と聞かされていたが、この舞台では過去に例を見ないほど長く、具体的な言葉が用いられていたらしい。芝居の展開にやや図式的な印象を受けたのはそのせいだろう。はい、次なに時代、はい、こういうことがありました、はい次、なに時代、というふうに。
正直、そういう部分には興ざめを覚えた。個人的な好みからすれば、もっともっと変拍子と役者の身体、音楽のアブストラクトな、過剰な混合が観たかった。お説教とは言わないが、お話が過剰だったように思う。







◆ まだ明るいうちに始まり、段々と日が落ちてくるところまで演出に取り入れた舞台がクライマックスを迎えると、観客はただちに港まで向かうよう指示された。20:45分に犬島を出て高松港にむかうフェリーまで殆ど時間がなかったからだ。ぼくたちはその便に乗るつもりだった。
◆ 夜の闇の中で下るスロープ、そこから見下ろす地上やどす黒い海は、また格別だった。
松本氏が劇場の入り口で、スロープを降りて帰るお客に挨拶をしていた。忙しそうだったので、特に感想を伝えることはしなかった。
フェリー乗り場に移動すると、係員が大声で時間を怒鳴りながらさらに観客を急かしていた。
そのテンパりぶりに、ナカシマさんと苦笑する。首をすくめる。
公演の余韻を、このように無神経で粗雑な所作がぶち壊す、ということを理解して欲しかったものだ。


◆ フェリーは何事も無く数十分後に高松港へと到着した。ここから深夜のフェリーで神戸まで移動する予定だった。ぼくはまだ四国に降り立ったことがなかったから、これが初の上陸になるのだった。
◆ 高松港ー神戸のフェリー乗り場まで移動するバスの時間まで、ナカシマさんの提案で一鶴という有名な骨付鳥の店で軽く夕食をすませた。一鶴の骨付鳥と鶏飯+生ビールのコンビネーションは、炎天下を歩きまわり、ハードな演劇を観て疲れ切った身体にとってこの上なくすばらしいものだった。まさに至福。ほとんど酒を飲めないナカシマさんを「気の毒に…」思ってしまう。横浜にも店舗があるようだが、都内にあったら間違いなく定期的に通うだろう。









◆ 0:30分に出るフェリー乗り場専用送迎バスを待つ場所につくと、流石に疲れすぎて芝生の上でバックパックを枕にごろりと体を寝そべらせる。他人から見たら野宿を企てようとする貧乏旅行者に見えただろうか。
◆ フェリーでどれだけストレス無く眠れるかが気がかりだった。翌日は大阪で一日、またハードに行動する予定があったからだ。
◆ ぼんやりとそんなことを考えながら、しばらくの間、ナカシマさんと今日の維新派公演などについて話しながらバスを待った。かれは今ひとつ気に入らなかったようだ。ぼくより遥かに年季の入った維新派ウォッチャーなので、たぶん、具体的に、大きな不満に値するなにかがあったのだろう。


◆ フェリー乗り場に向かうバスの雰囲気は暗く、これから深夜の港湾労働にでも向かう派遣会社のバスかと思わせるほどの重苦しさだった。
◆ しかし幸いにしてフェリー自体は奴隷船ではなく、広々として近代的な設備であり、雑魚寝スペースとはいえ乗客数も少なく、悪くないもので、快適と言ってもよかった。荷物をおろして横になると、ぼくはすぐ眠りに落ちた。

*1:公式には100人ほど居住しているとのこと

*2:この変わった言葉は、ウルグアイに生まれ、フランス語で創作をした詩人、ジュール・シュペルヴィエルが1930年に書いた詩からの引用されているとのこと