吉川陽一郎個展「街で迷うために」




9月19日、日曜。
平日と変わらずに粛々とバイトを終えたあと、大学時代からずいぶんとお世話になっている作家(いや、彫刻家、と呼ぶべきなのだろうか?)、吉川陽一郎さんの個展を見るため渋谷、ギャラリー・ルデコへむかう。吉川さんとは、三月にも仙川で開かれた個展以来になるのだった。
もう五十代の半ばにさしかかるというのに、年に二回も個展をやるというモチベーションの高さには心底驚かされる。
吉川さんの作品は大掛かりで、手間ヒマかかって、かかって、という「構造物」ばかりだから、より強く、そんな印象を受けるのだ。







明治通りに位置するルデコは、地下から六階まで貸しも含めたギャラリーになっている。
吉川さんが展示していた一階はコンクリ打ちっぱなしの妙な空間で、Barカウンターが設置され、ショップやイベント・スペースっぽくもあり、実際、どの用途にも使えるのだという。



電話して在廊を確認し、11時のオープンと同時くらいに押しかけると、いつもと変わらぬ吉川さんがいる。痩せた躰に飄々とした佇まいで、「生活」を感じさせない(でも実際は奥さんと、お子さんが三人)、というか一体何をしているのかよく分からない印象を人に与える、そんな吉川さんがひょんひょんと動きまわって、ギャラリー内で作品の電源を入れたり、動作をチェックしている。



ガラス張りで通りからも見通せる入り口直ぐに、以前の個展でも展示していた、妙ちきりんな作品の改造バージョンがある。
人間の身長くらいある、足つき視力検査装置みたいな覗き窓付きの箱が移動式になっており、足元に近い下部に潜望鏡のようなレンズがついていて、それが捉えた外界の風景と音が、離れた位置に設置されAVケーブルでつながったビデオモニタに出力されている、とでも言えばいいか(こんな説明では未見の人はさっぱり分からないと思うが、今さら分かってもしょうがないし、あえて写真は載せない)



バーカウンターとソファが設置されたその奥には、上掲写真の物体が、巨大な筒状の構造物が設置されている。金属と木材で出来ていて、軽くはないが、真ん中の取っ手をつかんで、廻すことが可能だった。廻すと、筒上部に空けられた隙間から透明な液体が揺らぎ、反射が光に踊った。
カウンターのむこうで炭酸水を飲みながら吉川さんが解説してくれる。喫茶店のおやじが向いている、と言われるだけあって、スゴく自然だ。


「ネタばらしすると、容れものに、水が入ってます!工夫してあるので、どんなに廻しても、こぼれないよ!」


なるほど、確かに、筒は堅牢である。
どんなに廻しても、水の揺らめきとキラメキは、一定である。
筒が回転するゴログロゴログルいう音が、妙に耳心地良い。



冒頭に載せた写真は、以前から制作されている小品のシリーズで、数年前、ぼくも一つだけ買わせていただいたことがある。金属が有機的な不定形、とでもいうような形態に加工され、小さなテーブルの上に乗せられている。
赤ん坊の手びねり潰した粘土細工にも見えるし、完成前に崩壊したタコ焼きにも見える。
今回のようにいくつも並べてみると、台の足がエイリアンの群体のようでもあり、とてもユーモラスで、イイカンジ。
そして、作品と、それが設置された白い台に差し込む光と影のコントラストや響きが、とても美しい。


トーンを調整しても実に映えるので、いくつか画像をフォトライフにUPしてみた。
実にイイカンジ。


http://f.hatena.ne.jp/Hainu_Vele/%E5%90%89%E5%B7%9D%E9%99%BD%E4%B8%80%E9%83%8E%E5%80%8B%E5%B1%95/



吉川さんの個展に来ると、たいていは長っ尻になる。帰るタイミングを失ってしまう。
自然な人当たりの良さの中に、作品や美術への断固たる、譲ることのない自らの視点が、対話不能な偏屈さではなく応答に開かれた知性として感じられることもあって、話しこんでしまうことが多い。この日も、作品を見ながらカウンターに座って喋っていると、夕方になっている。
色々な話をしたが、彫刻への視点は相変わらずユニークだ。

「おれの場合、彫刻は、重さ、重力に関わるもので、そこが唯一、平面の作品と違うものだと思ってる。観者がそこに直にコミットできて本当の意味で成立するものだから。卓越した「堀り」の技だけを見せる西欧の人体彫刻みたいなものは、三次元的な映像だよ。その技を凄いとは思うけど、おれには関係ないなあ」


重さ、重たさ、重力、立体的な映像に過ぎないもの…


かれの作品を「彫刻」と呼ぶのが適切なのか、ぼくにはちょっと分からない。
そもそも、本当のところ、ここで提示されている、手のかかった奇妙な物体がいったい何であるのかも、よく分からないのだ。
明らかに、「彫刻」という強い「呪縛」を持つ言葉が用いられる/てきた世間的な意味からは外れているし、データベース的理解として、日本の美術史(笑)を参照すれば「ポストもの派」というウサン臭い切り口は出てくるが、そんな括りなんかどうだっていいし、単にインスタレーション、と呼んでみても、なんだか座りが悪い。
まだしも、立体造型物とか、構造物とか、そんな味も素っ気無い名称の方が、イメージによる負荷が少ないように思える。


「現代美術っていうのは、欧米人にとっては信仰なんだよ。宗教とおんなじだよ。
あの人たちは何かを信じていないと生きていけない精神構造になってるから、神が死んだとなったら、別に信じるものを見つけなきゃいけないんだ。
唯物的なようでいて、それを超えるもの、精神的な価値を無限に認めることを厭わない。
だからただのゴミみたいなものに何十億っていう値段を平気で付けることができる。
それが、かれらにとってのリアルなんだ。それがコレクターでも凄みにつながる。
普通の日本人にそんなものはないよ。この絵一枚で十億!っていう不当さの感覚を消すことはできない。
お前らにアートは分からない、っていうのは、そんな精神の有り様への共感不可能性も含まれるだろうね」


ぼくが最近見てきたニューマンの個展や、騒動になった村上隆のベルサイユでの個展などの話をしていて、吉川さんがそう言ったことが、とても印象に残っている。
乱暴な印象論かもしれないが、神なきあとの宗教的な情熱と、精神の価値をどこまでも重要視するという意志が、例えばただの石ころを億単位にするのだということ。
すべての価値は市場が決める資本主義内部でのゲームの結果に過ぎない、という見方はもちろん真だが、それを市場で扱うだけの価値あるものと担保する不可解な根拠と捉えれば、ひどく得心がいく、、気がする。



多くの日本人には、確かに、精神が物体の価値をはるかに超えるという状態を素朴に肯定することは難しいだろう。「馬鹿でえ!」という思いが先にたつだろう。
前衛として価値観を強迫的に更新することが、現代美術の絶対的な正義であることも、同じように馴染みづらいだろう。
つまり、「ゲームのルール」の、「ルール」と、その根拠をなかなか受け入れられない。


ではそんな営みに、誤解含みで魅入られてしまった人間はどうすればいいのか?


「そんなふーに考えると、端的に喜劇/悲劇であるという面もありますかね、この国でアートなんてやっちゃってるのは?まさに【悪い場所】だもの」


ぼくはそう聴いてみる。吉川さんは笑って答える。


「しょうがないよ、受け入れるしか無い。おれだって、全くカネにもならないこんなこと何十年もずっとやってるけど、止める気なんてないもん。死ぬまでやるし、まあ、馬鹿ですよ、大馬鹿者ですよ」



一部の作品の撤収にとりかかりながら、自己防衛と自己暗示のために過剰に鼻息荒くなるでもなく(そういうトゲトゲしさを発する人は、接していて、とてもつらい、というかウザイ)、実にさらっと、自然にそう答える吉川さんの顔は静かに本気で、痩せたおじさんを超えて、達観した仏のようにも見えた、、、気がした。