「WE DON'T CARE」を観たのである

2月4日(金)

  • ユーロスペースのレイトショーで、日本の大量消費社会とノイズ・ミュージックシーンをミックス・ドキュメントした映画「WE DON'T CARE」を観る。火曜日に冷たい熱帯魚に出かけたのと同じ顔ぶれ。
  • 渋谷のモスバーガーでマック、モス、バーガーキングの比較をしながら腹を満たしたあと、ラブホ街でもつれあう男と女の有様に「からだ」の粘膜的コミュニケーションのラブ&ピースな因果地平を感じつつ、会場へ。
  • ぼく以外のふたりは、「所謂」ノイズ・ミュージジックと呼ばれるもの全般に、まるで免疫がない。興味もない。
  • 「たぶん刺激になるよ」という詐欺的な誘い文句により、なにがなんだかよく分からないまま、上映開始を迎えることに。
  • マアぼく自身もそれほどノイズ・アヴァンギャルドに詳しくも、傾倒しているわけでもないのだけど、こういう映画自体が貴重なものだし「せっかくだから」(byコンバット越前というぐらいの気持ちだった。


  • 映画は、さまざまなエフェクトを用いるアナーキーなチェロ奏者、坂本弘道が廃屋で演奏するシーンで幕を開ける。数分して、産廃置き場に現れた大友良英ターンテーブルにレコードをセットし、脳に響く高音ノイズを奏で始めるのだが、このシーン付近で数名の観客が退席していった。
  • 以後も、劇中でノイズが激しくなってゆくにつれ、ぽつぽつと席を立つ人間がいて、のべ、十人以上になったのじゃないだろうか。




ユーロスペースで観客が途中退席なんて、はじめて見ましたよ!」

  • ミニシアター・マニアであるYさんは、終演後の帰り道で、退席者が出たという事実に興奮し、鼻息荒くしていた。
  • 「こういうところに来る人ってのは、もう、あらかじめ【覚悟】してきた人だけだと思ってたんですが、それすら裏切ったということか!」
  • 実際、出て行った人間がどういう理由で退席したのかは分からないけれど、仮にこの映画に対してなにかを勘違いしていた場合、場内に満ちた音は耐え難かっただろう。たぶん。
  • だって、「音」に対して無防備な人が、ピーとかガーとかグギャーとかピコピコビコンッ、ドゥヴァ、ヴァヴ!ギャギャヴヴヴァァァァみたいな超高音や濁音が大音量で鳴り続けてて平気なわけがないから。
  • 数分ごとに新たに登場してくるミュージシャンは、いずれも攻撃的で凶暴なノイズを観者に突き刺す。その合間合間には円卓を囲むかれらの「演奏」に関するモノクロの雑談風景が挟み込まれ、監督であるフランス人の目が切り取った「トウキョウ」の、異様な「風景」がシンクロしてゆく。
  • トウキョウ/大量消費社会/ノイズ、という視点だと聞いたから、もっともっと「トウキョウ」「なまの音」からノイズへの近接を探る映画なのかと思っていたが、画面にかぶさる音はすべてノイズ奏者たちの爆音である。これには意表をつかれた。
  • 本来の音を剥奪され、「吹き替えられた」風景。
  • 唐突で断片的なカットといい、まるでアート・フィルムのような質感。
  • 見慣れきってもはや特別な意識も持たない日常の風景が、外部の視点によって少しズラされるだけで、どれだけ滑稽で異様なものとして再構築され、立ち上がるのか。
  • 現代美術の映像的な方法論としては手垢にまみれたものだとはいえ、「WE DON'T CARE」が示す「トウキョウ」は新鮮だった。
  • もっとこの部分に集中してフォーカスしてくれた方が、より面白い映画になったのではと感じる。
  • ミュージジャンたちの演奏もそれはそれで楽しめるものだったが、どうも「トウキョウ」との関連が希薄で、それが映画としては散漫さに繋がっていたのではないか。
  • 「これってさあ、別々でいいんじゃないか?ミュージックビデオは改めてつくってよ」とさえ思ってしまうのだ。モノクロームの会議シーンなども、各自が勝手に内輪ノリで自分たちの音楽観をダラダラと喋っているだけで、浮いていた。

雑音/楽音/それを「認識」すること

  • 感想として、Yさんはそれなりに面白がっていて、「音楽としてああいうものがあるっていう文脈はわかりますよ」と言っていたが、後輩Sは、最期まで理解不能、というか「こいつら、頭ダイジョウブ?」という状態だったようだ。
  • 「1700円払って苦痛を体験するってことについて、途中から考えてたよ!色々言いたいことあんぞオイッ!」と、逆にテンションが高くなっている有様に。
  • Sの反応は、「音楽」とはまずもって分類や「認識」の、つまり脳の問題であり、ノイズはそれが肥大したものなのだということを改めて実感させてくれて(かれにとっては気の毒なことであったが)、ぼくとしては面白かった。
  • 一部のグリッチアンビエントも含む、広義のノイズ・ミュージックの成り立ちとは、既存の認識においては「音楽」以前に、「楽音」としてさえ捉えることなどなかった周波数、音色、テクスチュア、リズムetc……それら「雑音」「音楽」として「発見」し、構築することであり、それは電子音楽だとかポスト・セリエルだとかトーン・クラスターだとか一部フリージャズだとかの試みというかたちで、実験的な音を志向する音楽家たちによって作りあげられてきたわけだが、その「認識」拡大ハードルは、やっぱり、とても高い。
  • 人の耳→脳が、自然に(自然、なんて言うと乱暴だが)求めるものは、(文化によって違いはあれ)パターン化した旋律や和声やリズムだ。それから自由になるのは難しい。人類が長いことかけて作り上げてきた文化的な「からだ」=脳の反応はとても強力だ。
  • 実際ぼくだって、三度の飯よりノイズ好き、なんて人間の話を聞いたら、彼彼女の精神状態を疑ってしまうもの。
  • そうした困難なハードルの高さを突き破るからこそ、一部のノイズ・ミュージックは、とても「美しい」し、面白いのだけど、残念ながら、この映画にそこまでの強度はなかったように思う。理解も免疫もない人間に、「認識」の拡大を促すような、轟音の只中に引きずり込んでしまうような得体のしれないパワーや引力は無かった。その意味ではマニアのものであり、マニアなら間違いなく楽しめるだろう。
  • (ただ、繰り返しになるが、個人的にはミュージシャンより、さらなる「トウキョウ」が観たかったのだけど)。