メモ/ノート/藝大卒展/散髪のこと


2月3日(木曜)

  • アルバイトを終えたあと、ひさしぶりに上野まで足をのばし、東京藝術大学の卒業制作展に出かける。
  • この日は最終日。都芸時代の同級生だった、山田という友だちが油画棟にて展示をしていたので、それを観に行った。
  • 多浪多浪を重ねたかれが、おそらくは、あの年の卒業生で最後に残った「学生」になるはずだ。
  • このまま修士課程に行くのかどうかは知らないのだけれど、その場合、あと二年。修了時には30歳を過ぎるわけだが、いまの人間の平均寿命を考えれば、むしろそのぐらいでちょうど良いのではないか、と思ったりもする。
  • ダ・ヴィンチが渦巻きを捉えようとした有名な素描を直ちに連想させる線で、樹木のようなものをモチーフに描いたかれの作品は、大作である卒制より、置いてあったファイルに資料として収められた多数のドローイングの方が優れたものだと思えた。作者の創造への意志や精神性というか、人格的なもの(つまりは、作家性)をよく表していて、興味深かった。
  • 油画の卒展全体を見渡しても、ビデオやインスタレーションは非常に少なく、絵画がそのほとんどを占めていたが、明らかに非・脱・反時代的な山田の創作は、良かれ悪しかれ、浮いていた(沈んでいた、と見る人もいるか)。
  • かれの作品には、袋小路がどこまでもどこまでも伸び続けていくような、ゴールは見えているが、けしてそこにたどり着くことはないというモヤモヤした感覚がある。
  • 以前から比べると画面の純度は上がっているし、「個」の輪郭もはっきりしているのだが、どこか外部への回路がシャットダウンした/されたような、目に見えないバリアが張り巡らされているみたいな閉塞がある。
  • それは「殻(自我の?)」なのか?
  • ぼくには分からないが、その重苦しさをどう扱うのかが、今後の作品展開にとって重要なものではないか、という気は、強く、する。
  • 油画棟の入り口付近で小山登美夫氏のご一行とすれ違う。
  • 「そういえばレントゲンの人も、Twitter"めぼしいものは無し"なんて呟いていたな」と思いながら藝大をあとにして、表参道へ移動する。
  • 前日、約一ヶ月ぶりに会って韓国料理屋で留学生と一緒に飲んだ、脳科学系サラリーマンであるましばさん(仮)に、「あれ?えーと、パー、、マ?ですか?」と半笑い&半疑問の表情を浮かべられたこともあって、そろそろ髪を切らなきゃいけない、と思ったのだ。
  • ぼくはヒドい天然パーマなので、放っておくと冴えない外人のカツラ状態になってしまう。
  • 予約した時間まで少し間があったため、渋谷のマクドナルドでメチャ不味いカフェラテを飲みながらダン・ファンテ「天使はポケットに何も持っていない」を小一時間ほど読む。
  • 翻訳は、ブコウスキーも手がけている中川五郎
  • ダン・ファンテは、C.ブコウスキーが神とあがめた作家ジョン・ファンテの息子で、当然かれもアルコールで生活を破壊した過去を持つ。
  • 作品のテイストも、50歳でのデビューも、ブコウスキー的だ。父の死を回顧する私小説的フィクション。ブクほどの覚めたユーモアと批評の切れ味はないが、アル中の、自己憐憫に満ちた老ブルテリアとのオン・ザ・ロードは、文学としての確かな核を持っている。


     

  • 14時から予定通りに店へ。
  • いま、大学時代から担当してもらっている、美人すぎる美容師Mさん(実際、本当に美人すぎるのだ)は育児休暇中。代打には、男性美容師Iさん。
  • Mさんよりも仕上がりがふわふわしていて軽く、女性的なのがとてもおもしろい。Mさんの方がむしろエッジの利いたシャープで男性的なカット。
  • これは普段Iさんの客が(おそらくは)女の子ばかりで、Mさんの客の八割が男だということが関係しているのかもしれない。
  • Mさんの復帰は4月だけれど、伸ばしすぎるのはやっぱり不潔だなと、切るたびに感じるので、その前にもう一度くらい短くしようかと思う。
  • 渋谷までの帰路、国連大学前でミャンマーの暴政を訴えるメッセージカードを持った数十人の人々を目にしたら、なぜか急に小腹の空きを覚えた。
  • 近くにあるおにぎり屋に入って、塩だけのものと紀州南高梅入りのものを、ひとつずつ食べる。にぎりの量も大きく、いい味。これで緑茶がつけば文句なしだったが。
  • 隣の席では、陰気な顔をした白人が、味噌汁を飲みながらiPadでエジプト情勢らしきニュース写真を見ていた。
  • ミャンマーもエジプトも、ここでは全くリアリティがないが、情報だけは、おそろしい速さで世界を巡っているのだ。