チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」
2月15日(火)
- ついにチェルフィッチュを観た。神奈川芸術劇場での千秋楽。
- あくまで「作家・岡田利規」のファンなので…、ということを理由にかれの指揮する舞台は一度も観たことがなく、この公演情報も直前になって知ったというぐらいに不熱心&情弱なぼくであったが、とても面白かったし、予想以上に刺激を受けた。これまで見逃してきたことを後悔してしまった。
- 今後は、追っかけていこうと思う。
無知の観るチェルフィッチュ
- はじめてのチェルフィッチュ体験に加え、ぼくは演劇全般に無関心だし、そのルールや文脈にも、そうとう、無知だ。
- だから「ゾウガメのソニックライフ」に「よさ」「面白さ」を感じた、中身というか実態を言語化するさいにも独りよがりにならざるを得ないのだけど、まず、そう、単純に役者の発する「ことば」に何の違和も覚えなかったことに(自分自身が)驚いた。
- ぼくは岡田利規の表現を小説から知って、次に戯曲を読み出したから、以前にチェルフィッチュを僅かな映像資料で観たとき、役者を介した「人の声」が、あの脅威のベタ起こし風リアル口語台詞を喋ることによって、テキストの持つ切り詰められた硬質さや密度がひどく損なわれているようで苛々したのだけれど、「ゾウガメ」では山縣太一をはじめとした演者の卓越した表現に自然と引き込まれていた。
- 字面の意味から乖離した身体の動きを伴い、眠気にからめ取られる寸前まで「間」をとって発話される「ことば」が、静かに、深くゆっくりと、体内に浸透してくる(せりふのいちいちを記憶しているわけでは全然なく、というかむしろ芝居の流れ自体、断片的にしか覚えていないが)。
- こちらに内省を喚起する表現?なんだろう、今でも身体の、特定出来ない全体部分に響いている、みたいな……。
- あの不可思議な「ことば」の力を、どう表せばいいのだろうか?
- いわゆる「演劇」で見られるような「演技」ではなく、表情、や抑揚、を殺し、テキストの表面だけをなぞるように奇妙に一本調子な演者の声と仕草。
- かといって雑な棒読みの単調、ということは全くなくて、穏やかで決然とした示威?こう書けば、近いかもしれない。特に山縣太一の、柔らかく滑らかなのに鋭く耳と神経に刺さってくる声が持つ場の支配力には、いっぺんで惹きつけられた。思いっきり吹き出してしまうようなユーモアと同時に、背筋を寒くさせ、戦慄させる緊迫感があった。
境界線上としてのチェルフィッチュ
- 「まあ、既存のルールを捨てるところから始めてもらわないことには、どうしようもないですよね」
- 「ゾウガメ」の作品パンフレットで岡田氏は「既存の観劇ルールを捨てて、今回は作品にのぞむべきなのでしょうか」という問いに、上記のように応えていたけれど、繰り返すが演劇の伝統的な作法に関してほぼ全く無知・無関心であり、美術→散文という流れでものを作っている僕にとっては、ある意味、戸惑いは少なかったと言える。
- チェルフィッチュは【演劇というシステムに対する強烈な疑義と、それを逆手に取った鮮やかな構想が高く評価され、とらえどころのない日本の現状を、巧みにあぶり出す手腕に注目が集まった】と紹介されているのだが、岡田氏自身もチェルフィッチュが「演劇」と見なされるかどうか、という点にはかなり意識的なようで(当たり前か!)、【ゾウガメのソニックライフ】 特設サイトで束芋相手に語っていた内容がとても印象的だった。
僕がおもしろいと思っているのは、自分が“ザ・演劇”の賞である岸田戯曲賞をいただいてしまったことですね。それによって僕は演劇というカテゴリーの中に普通に入れてもらえているんだけど、そうでもなければたぶん僕がやってることは演劇と見られていないだろうと思うんです。「あれは演劇っていうか、美術寄りのパフォーマンの人たちでしょ」って言われているというパラレルワールドを容易に想像できますし。だから岸田賞いただいたのは、事故ですよね。そのおかげで「演劇」という色眼鏡で見てもらえてる。それはすごくおもしろいことですよね。
- 「あれは演劇っていうか、美術寄りのパフォーマンスの人たちでしょ、って言われているというパラレルワールドを容易に想像できます」
- これには、ああ、やっぱりそうなんだ、と腑に落ちるところが凄くあった。
- 【演劇】への【疑義】を核に据えて作られた【演劇】。
- それは、ひとつの「役」と「せりふ」を与えられた役者が主題と道筋のある「物語」を演じ再現するようなものからは遠ざかり、舞台を構成している各要素の意味のつながりが分解されるだろう。
- 「ゾウガメのソニックライフ」には恋人の男女が二人、アパートで「日常」をめぐってあれこれと話しあっているという戯曲上の設定はあるが、「彼」、も「彼女」も、ずっと固定されているわけではない。
- 5人の役者がかわるがわる「彼」になり「彼女」になり、または「彼」や「彼女」を語り、さまざまなモノローグが行われる。そのあいだも、独白と関係があるような、ないような状態で立ち尽くす者、奇妙な動作を絶え間なく行ってゆく者など、舞台上には立体的な、いくつものレイヤーが生まれている。
「うんざりさ」と、「日常」
- 【「ゾウガメのソニックライフ」は、わたしたちが感じているうんざりさ(および、その主な要因である社会)に、どこかしら普遍的なものがあることを、せめてものこととして信じて、つくられます。】
- 今回の公演に寄せて岡田氏が書いたメッセージの、この分かるような分からないような一節は、舞台で行われたことの内容をうまく表している。
- 「うんざりさ(および、その主な要因である社会)」はわたしたちの「日常」を薄く覆っていて、その「煮詰まり」は不可避的に進行しているのではないかということ。そこから「せめてものこと」としての、漠然とした「脱却する的なテクニック」の曖昧な提示…
- なんだかわかったようなことをダラダラと書いてきたが、実際には、ぼくは、なにもわかっていないのかもしれない(たぶん、そうなのだ)。
- 来月発売の新潮に、戯曲全文が掲載されるとのことなので、きちんと読みなおしてみたいと思う。