日本語表現のオルタナティブ、としての岡田利規

  • 前回のエントリでは、チェルフィッチュの最新公演についてのレポートを書いたが、もともとぼくは岡田利規の小説、および戯曲で用いられている研ぎ澄まされた日本語に魅せられた人間である。


「超リアル日本語演劇」
「だらだらとした現代の若者言葉の驚異的な再現」

  • よくこんな風に形容される岡田の書く小説や戯曲の「せりふ」
  • 竹内銃一郎は、岸田戯曲賞の選評で岡田を推しながらも「ト書きはいかにもぞんざいで、しかも、今時の若者口調のしまりのない台詞がダラダラととめどなく続き…」などと書いていたが、ひどい見当違いをしている。
  • 大江健三郎賞を受賞した小説である「わたしたちに許された特別な時間の終わり」Amazonレビューでも「緊張感のない若者言葉が読むに耐えない。モーロクした大江の出す賞にふさわしい」などと出鱈目なことを書いている人間がいる。
  • 岡田の書きだす「せりふ」は、確かに一見、「超リアル」「だらだらとした現代の若者の口語」のようだけれども、実際は似て非なるもの、だ。
  • ばかりか、むしろ「だらだら」の対極であり、冷徹な知性よって観察し、解体され、緻密に再構築されたシミュレーションであり、過剰な反復を伴ったそれは、恐るべき批評的鋭利さを持っている。
  • ドイツでのチェルフィッチュ公演のさい、ベルリン新聞が【人生の表層を精密に観察し、外側から注意深く扱っている。社会の病的な核に、ハサミのように肉薄した】と書き、TAZ誌が【絶え間ないテクストの反復を通じ、息を呑むほどの空洞を明確に提示する】と評した如くに。
  • 以下、彼国で演じられた「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」から、「クーラー」の映像と、実際のテキストの一部*1を書きだしてみよう。


正社員(男) なんかねマキコさん、日曜朝とか、
正社員(女) はい、
正社員(男) 政治のトークとかやるのとか、番組、もしかしたら、あるじゃないですかっていう、
正社員(女) はい
正社員(男) どうですか?知ってるかもしれないですけど、そういうテレビの、見るとすごいああいうのすごいトークの、
正社員(女) はい
正社員(男) 喋りを?ああいうやつら、っていうかああいう人たち、人たちって、あるじゃないですか、なんていうか、僕見てるわけじゃないですか、そうするとね、思うんですよ僕とかすごい常に勉強になるなあっていうのは、見てると思うのがなにかっていうと、言っていいですかね、やめないじゃないですかまじですごい喋りを、持続がね、すごい喋るっていうか、ああいうやつら最後までトークっていうか粘り?そう、絶対、ていうか自分がこれ言おうって決めていることがまずあるわけじゃないですか?
正社員(女) ええ、
正社員(男) あいつら的に?そう、で、っていうのが、そう、ありますよね?っていうのがあるわけじゃないですか、まず、みたいのが、ああいう人たちって、それで、最後までああいう人たち言わないと気が、すごい人が横から来ても(「横槍を入れてきても」の意)、ガンガン入れて来ても全然完無視して、気が済むまで行くぜ行くとこまで、みたいな、全然ガンガン声とか声がかぶってきたりしても全然っていうか、ほとんど「えーっ!」っていうくらい「え、ちょっとわざとだろそれお前」くらいの勢いで、平気で行くじゃないですか、そういうのとかがすごいよなあ、やっぱりここまで行かないと?いけないよなまじで本気出して俺もってすごい見るたびにっていうか、僕とか見ててやっぱり思うってのがあるじゃないですか、オッケーだなあっていう、そう、オッケーだなあっていうか、オッケーなのかな?ってのはやっぱああいうの、なんていうのかな、鍛えて、っていうか、
正社員(女) はい、私なんかちょっと寒くて、
正社員(男) ある意味鍛えてるよなって感じが、すごい、だからすることとか、僕なんかあるってのが、ああいう人たち見てるとあるってのはあるから、そう、ある意味だからやっぱり勉強になるってのは一応あるかなとは思うんですよね、すごいああ、見習わないと俺もいっぱしのやっぱり?社会人として?少しはやっぱし?いっぱし?っていうのが刺激っていうか、相当ああいうのありますよね、っていうーーーっすよね、





  • 書かれたテキストと、「役者が発話した」テキストは、とりわけそれを知る前と、知ったあとでは響きが異なるものだ、、、、ってことが、動画と元のテキストとかを比べて見たりなんかするとやっぱり、すごく明らかにそれって、わかるじゃないですか?やっぱり?っていうのがあると思うんですけど、やっぱりね、そういうの、ないですかね?ありますよね、すごく?
  • ……まあヘタクソなモノマネはこの辺りで止めるとして、ぼくは舞台を見る前、自分の声と、自分の速度によって脳内でテキストを読んでいたが、今や「クーラー」は、演者である山縣太一の声でしか再生されない。
  • 「これテキストで読んだら面白さ8割減だよ」などと書いてあるAmazonレビューには全く同意できないのだが、演じる人間の技量によってさらなる魅力を得る(無論、逆もある)ことがある、という場合も、理解できるようになった
  • 岡田はこれを【テープ起こしのバイトでの、いわゆるベタ起こしから着想した】と過去のインタビューで語っていた。
  • 散漫な意識の流れがとめどなく音声としてダダ漏れる混沌、そこから注意深く抽出し、組み替えた「ことば」【絶え間ない反復】によって、岡田は、現代の日本人が日常行うコミュニケーションおける言葉の【無意味さ】【虚無性】を、【息を呑むほどの空洞】を浮かび上がらせる。それこそ、「息を呑むほど」に。
  • 「リアル」=「日常」へ執着する視点は、岡田の創作の根本的な姿勢だという。
  • 「ゾウガメのソニックライフ」パンフレットのインタビューで、かれはこう応えている。


僕はいつも内容的には同じなんです。つまりどの作品でも「日常」についてしか書いていない。それはなぜかというと、僕は基本的に「自分が生きているこの現実をどう肯定するか」ということしか創作の起点にできないみたいなんですね。そんな僕には、現状のオルタナティブとしてたとえば、過去の人々の生のありかたが今と較べていかに人間的だったかということを提示するようなやり方には、有用性が感じられないんですよね。だから僕はただ虚心に日常を見ていくしかない

  • 飛躍を感じる人もいるだろうが、岡田のテキストは、現在日本の、日本語表現の可能性を展開する一つの高度なオルタナティブだと…、少なくともぼくはそう確信している。
  • いま、最も注目する作家のひとりだ。

    

*1:引用:岡田利規「エンジョイ・アワー・フリータイム」2010年 白水社