多摩丘陵・散歩日記・Part.2


Part1からの続き





  • 聖蹟記念館がある公園からすぐのところに位置する慰霊苑には、「拓魂」と掘られた石碑が据えられている。
  • 満州開拓殉難者之碑」と名付けられたその慰霊碑は昭和38年に建立されたもので、敗戦後に満蒙から引き揚げてきた開拓移民関係者が行った熱心なロビー活動の成果であるようだ。
  • 慰霊苑の正式な名称は「拓魂公苑」といい、現在は都の管理施設になっているが、「社団法人 全国拓友協会」「拓魂碑奉賛会」によって毎年4月の第二日曜日、合同慰霊祭であるところの「拓魂祭」]が行われている。
  • 少し調べたところでは、碑は開拓地として選ばれた中国東北地区の方角を向いて建てられているのだという。
  • 「拓魂」の文字は、茨城に「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」を開設し、「満蒙開拓の父」と呼ばれた加藤完治が筆をとったとのこと。
  • 碑の側にそびえるもう一つ別の大きな石碑に、詳細な経緯が記されている。





  • 毎年行われる「拓魂祭」では警視庁音楽隊のファンファーレから始まり、国旗掲揚・国歌斉唱に加え、戦時中の青少年鍛錬に使われた「日本体操(やまとばたらき)」の掛け声である「天晴れ、おけおけ」が叫ばれ「弥栄三唱(いやさかさんしょう)」も為される。そして、慰霊祭の最後には下記のような歌を全員でうたいあげるそうだ。


万世一系 たぐいなき 天皇(すめらみこと)を 仰ぎつつ
天涯万里 野に山に 荒地開きて 敷島の
大和魂 植うるこそ 日本男児の 誉なれ(以下略)

  • ぼくは不勉強にして、つい最近まで家の近所にこのような曰くつきの施設があることを全く知らなかった。
  • 普段は近所からも殆ど忘れ去られたような小さな慰霊苑ではあるが、その存在に関しては、年一回の慰霊祭も含め、人々の政治的姿勢によって強く賛否の立場がわかれるだろう。  
  • 典型的な左翼のスタンスからは、それは単に愚行だ、と指弾される。中国大陸侵略の尖兵であるも同然だった開拓団を批判無く賛美的に振り返るのは、愚かな戦争への真摯な反省を欠いた盲目的な国粋主義天皇主義を未だに信望している証だ、ということになる。
  • 他方、大方の右翼的スタンスからすれば、あまりに悲劇的に砕かれた遠大な夢の残滓を今なお偲ぶ、美しく感傷的な集いであるだろう。国家は顔を背けず、彼らに正当に報いよ、と言うだろう。
  • もちろん、片方の当事者である中国大陸の人々からは、言語道断の無反省な軍国主義懐古、という反応しか得られまい。
  • しかし、いずれにせよ八万余の開拓団が大陸でその生命を散らしたのは事実だ。
  • 国中の貧農三十数万が五族協和「王道楽土」だと過剰に煽り立てられ、大きな希望を抱いて故郷を捨て、開拓へと乗り込んだ顛末としてはどうにも無残である。
  • この「拓魂公苑」は、その無残をも含めた記憶を振り返るよすがとなるもので、老人たちにとっては「聖地」なのだという。ぼくには、毎年ここ集まる人びとから、たとえ著しい時代錯誤や思考停止を感じようが、そのささやかな集いに対して、薄気味悪い反日市民団体のように鼻息荒く批判を飛ばすのは酷だと思える。
  • 何もかも無くし、失意のうちに帰国せざるを得なかった開拓民たちの一部は、再起を期した故郷の土地でも、今度は成田空港の用地問題という泥沼の争いに巻き込まれ、国家からさらなる裏切りを受けているのだから、なおさらだ。





  • それにしても、石碑には本当にさまざまな地域を冠した「開拓団」の名前が彫ってある。
  • 日本人は国外に出ていかない、排外的であり、移民の歴史も無い、とよく言われるが、明治から敗戦後十年程度までの期間には、その指摘はあまり当てはまらないように思う。
  • 満蒙開拓の試みは単なる移民という以上に大陸侵攻の駒という側面を持ってはいたが、それ以外にも困窮した多くの国民が、やむにやまれず、ときには半ば騙され、追い出されるようにして祖国を去っている。そして貧困からの脱却という切迫した希望を抱いて、アジア、中南米、北米の地へと向かった。 
  • 敗戦によって、それら「移民」の少なくない数が祖国に引き揚げてきてはいるが、日本人が「外」を目指した/目指さざるを得なかった歴史があったことに変わりはなく、戦後も、国中に溢れる貧民に苦慮した政府が「人減らし」のために意図的に弄した虚偽にのせられてドミニカへと渡り、辛酸を舐めた農民たちもいる。
  • 個別の事例については、既に多くの証言が残されている場合もあれば、逆にキューバへの移民のように非常に資料が限られているケースもあり、状況はさまざまに分かれるが、いずれも後世に語り継ぐべき、重要かつ貴重な物語であることは間違いない。




  • いま、3月11日の巨大地震によって引き起こされた地殻変動によって、日本は「新たな地震の時代」に突入したと言われており、それを切っ掛けにした福島第一原子力発電所の深刻な事故、及び派生した経済的打撃で国家が大きく揺れている。
  • そして、「福島での事故が収束しても、また地震津波という強烈なコンボが国土を襲い、各地の原発が事故を起こすのではないか」という懸念で、主に富裕層の中に「移民」を検討する人が増えているのだという。
  • なかには、御自身を第二次大戦中に欧州から戦火を避けてNYに退避したブルトン等になぞらえて、「沈没国家から亡命を決意した!」などとまくしたてる「文化人」もいるという。
  • こういう「(金銭的)余裕のあるテンパッた人たち」の懸念が現実になるかどうかは不明だが、ただ、これから段階的に、確実に「貧しく」なるであろう日本に見切りをつけて海外を目指す若年層が増え、新たな移民の時代が日本に訪れる可能性に関しては、あながち空想的とも言えまい。
  • そう考えてみてから再び「拓魂公苑」の慰霊碑を眺めると、無言で並ぶ石の墓標が訴えかけるものが、なにやら奇妙に示唆的である、、、、ような気もしてくるのだ。