3月11日からの33日間

  • 【報告:私事ですが、9日付けで29歳になっています】
  • とても久しぶりの更新。
  • Twitterウィジェットを見てお分かりの通り、ぼくは、生きています。
  • 生きています、なんて書いた以上、再開一回目は、やはりどうしたっていまも世の中を騒がせていることに関して触れないわけにはいかない。
  • 「あれ」から、もう一ヶ月以上も経っているということが驚きだ。
  • あまりにも予想を超えた、それが故に(実際の、恐るべき、前代未聞としか言い表せない災害規模とは乖離した)陳腐な映画のように見える、そんな事態が連続する毎日を前にして、「あれ」以来、どうも失語症気味になっている。
  • 当面、文化的な事象に関する内容の更新は、それほどできそうにもない。
  • 3月11日の午後、揺れが始まったとき、ぼくは西武新宿線すぐ横のルノアールでノートブックからWi-Fiに接続してTwitterを読んでいた。
  • 焼肉屋店主からの、わずか数十万円の政治献金外務大臣が辞めるなんて、狂っている。過剰コンプライアンスだ!」という論争のようなものを、読んでいた。
  • (現在の前代未聞の危機から比べると、気が遠くなるほど牧歌的な内容だと言うしかない…というか、誰も覚えていないだろう)
  • 画面の文字を追っている途中、妙な音がするので上を見上げると、大きく照明がきしんで、揺れている。地震?」と思っていたら、次は建物全体がゆっくりと横に揺れはじめた。
  • 一瞬で、「これは普通じゃないな」と直感させる震動の大きさで、窓の外を見ると、外灯付きの電柱が激しく前後に揺れている。
  • 2階にある店内には数十人の客がいたが、店員の避難指示を待たず、その半分ほどが軽いパニックにかられて店から路上に早足で出て行った。一人、入り口の自動ドアに激突した人がいて、自動の機能が壊れた。周囲の店鋪や飲食店からも、次々に人が外に出てきている。
  • 少し迷ったが、やや「付和雷同」気味に、ぼくもとりあえず荷物をまとめて外に出てみたのだが、そのころにはもう、揺れは収まっていた。
  • 「いまの揺れって、ちょっと、というか、けっこうスゴクなかったですか」二言三言、周囲の人たちと怯えが転じた興奮にかられて会話をしたあと、ネットで報道を確認しようと、店内に戻った。横の席では、あの揺れの中も微動だにせずMacBookで楽譜を書いていた眼鏡の男が、まだ楽譜を書き続けていた。
  • Twitterでの情報や知人友人に聞いた話と比較すると、都内の場合でさえ、ぼくがいたところは(相対的に)揺れがきわめて軽微だったようだ。事実、ルノアールは停電も断水もせず、被害は客の突撃による自動ドアの故障だけで、営業はそのまま継続していた(ただ、一階のバーガーキングはすぐ閉店した)。店員の女性たちは極めて落ち着き払っており、逃げ出した客をフフンと嘲笑っているかのようだった(妄想)。
  • そこから3月16日あたりまでの事態の推移は本当に常軌を逸した悪夢的なもので、列挙してゆくと、到底現実のこととは思われない。
  • 次々に判明していく東北の激甚な津波被害の報道に見入っていたら、今度はお台場でフジテレビが燃えている(結局は誤報)だの、巨大な地盤沈下でディズニーランドが半壊した(これも結果的には不正確な情報だった)だのと、日常の意識感覚を揺るがすような情報が次々に飛び込んでくる。千葉ではコスモ石油の工場がタンクの爆発と火災を起こし、東京湾に近い埋立地や、千葉、神奈川では液状化や地割れが多発していた。
  • そして、極めつけは地震津波により、福島第一原発で全電源と冷却系統が喪失」という非常事態。
  • 悪化を続ける原発と同時並行で、翌日未明には長野で震度6の余震があり、日曜日になると気象庁「あと3日以内にマグニチュード7クラスの余震が来る可能性は70%」という警告を「宣告」し、さらにあまりに唐突なタイミングでの「計画停電実施」という驚愕の発表もなされた。
  • 週が明けると、毎日のように原発が次々に、景気よく(超不謹慎)水素爆発して放射性物質が漏れ出し、15日の夜にはなんと「宣告通りに」震度6強の揺れが、今度は静岡で発生した(その夜、案の定というか、ネットでは「富士山から黒煙!」というデマが盛んに飛び交ったものだ)。
  • 確か、この16日前後で(あくまで一部とはいえ)都内のパニックは最初の頂点に達していたように思う。
  • 多くの外国人がスーツケースや巨大なキャリーを引きずりながら、新宿を駆け足で走り抜けている姿を目にした。旅行客の殆ど全てと留学生の多くが瞬く間に帰国し、少なくない数の大使館や外国企業が拠点を西へと移した。アメリカは自国民に原発から半径80キロ圏外への退避を勧告し、フランスは防護服を大量に大使館へ送りつけ、ドイツやオランダは在京国民へ安定ヨウ素剤を配布できる態勢を整えた。
  • 日本人でも、松濤や赤坂の大金持ちたちが関西、もしくは香港や沖縄などの遠方に逃れたと聞くし、某有名評論家A氏は伊豆方面に退避し(さんざんネタにされている通り、その途端に静岡で地震があったわけだが)、何人かのフリーライターや芸能人も東京を離れたとツイートしていた。あとで週刊誌を読んだところ、原発が水素爆発したことで、民放の報道大手の記者等も大勢、福島から離脱していたようだ。
  • 身近な例では、ある友人はロサンゼルスに一家で一時避難し、実家が関西以西にある何人かも、恐慌状態に陥って「疎開」した。
  • また、何人かの友人が「おい、日本はどうなっちゃうんだ!」「不安で気が狂いそう」などと泡を食って電話をしてきた。
  • ネット上では放射性物質以上に大量のデマや誤報が次から次へとばらまかれ、イソジンを一気に飲んで倒れる人間やホウ酸を食べようとする人間が出現し、広瀬なんとかいう懐かしのオカルト・ライターが終末を語る動画がYouTubeで驚異的な回数再生され、多くの人々の精神を不安によって損壊させた。
  • ぼく自身も、いままで生きてきた中でこれほど強いストレスを感じ続けたことは始めてであり、非常に消耗させられた。
  • なにしろ、繰り返すが「数日以内に70パーセントの確立でマグニチュード7の余震が発生する見込み」という状態だけでも極めて異常なことであるのに、さらに同時進行でジャンジャン原発が爆発しているのだから。
  • フィクションなら安いSFにしかならないが、画面の向こうで起きている出来事は疑う余地もなく現実という事態。
  • 「さらに巨大地震津波が誘発されて、福島だけでなく、あちこち原発が非常事態に陥るんじゃないか?」
  • 地震から一週間〜十日くらいは余震の頻度や規模がよくわからず、この想像が非常にリアリティを持っていたことを思い出す。
  • 15日の夜に静岡で強い余震があって、それから16日の朝付近まで避難用のバックパックを抱えながら敵を警戒するゴルゴ13状態で仮眠していたときが、個人的にその緊張感を象徴するものだった。
  • 福島の原発事故そのものによって西へ退避する必要性は感じなかったが、大規模余震や原発事故で都内がパニック状態になってしまったときを考えて、NYに住んでいる友人や関西方面の友人に緊急時の避難先依頼をしたことはした(果たして大混乱に陥った都内を脱出できるのか、という話はあるわけだが)。
  • 基本的に十日ほどは精神がずっと昂っていて、落ち着かなかった。
  • そんな状態から、徐々に個人的な警戒レベルを変化させていって、今日に至っている。
  • 一ヶ月のあいだ、定例の読書会もしたし、花見もした。以前と同じようなペースで人と酒も飲んでいる。アルバイト先は震災の影響をまったく受けていないので、仕事もそのまま続けている(しかし、残念ながらまったく集中できなかったため、3月末〆の新人賞用に書いていた中編は仕上がらなかった)。
  • 危機が去ったと油断しているわけではない。相変わらず未曽有の非常事態が継続しているという認識を持っている。
  • 先週くらいから、インターバルが再開したのか再び余震が激しくなってきているし、原発は当初の制御不能状態から僅かずつではあれ前進しているが、依然として収束までの目処は遠く険しいと感じる。核分裂と崩壊による放射性物質の外部漏出量を基準にしたINESの評価では、チェルノブイリ事故も同じレベルに含まれる最大の「7」相当との判定もなされた(今のところ【放出総量】そのものは福島の方が遥かに低いが)。
  • ただ、ある種「慣れた」と言っては多少語弊があるが、あまりに次々トラブルが続くため、最低限の備えだけはして、後はもはや何が起きてもその場その場で状況に応じた対処をする他だけで、それ以外は可能な限りいつも通りふるまうという、開き直りにも似た精神状態になりつつある、ということだ。
  • なかなか簡単なことではないが、今後も続いてゆく「非常時下」において「日常」を過ごすには、そうする他はない。
  • しかし、二十代最後の年を騒乱のただ中で迎えるなんて、運が良いのか、悪いのか。
  • いずれにせよ、ぼくらはこれから、可視化されていなかっただけだろうがなんだろうが、これまでかりそめに維持されていた「終わりなき日常」が完全に終わっていく、そのプロセスを目撃してゆかざるを得ないのだ。

日本語表現のオルタナティブ、としての岡田利規

  • 前回のエントリでは、チェルフィッチュの最新公演についてのレポートを書いたが、もともとぼくは岡田利規の小説、および戯曲で用いられている研ぎ澄まされた日本語に魅せられた人間である。


「超リアル日本語演劇」
「だらだらとした現代の若者言葉の驚異的な再現」

  • よくこんな風に形容される岡田の書く小説や戯曲の「せりふ」
  • 竹内銃一郎は、岸田戯曲賞の選評で岡田を推しながらも「ト書きはいかにもぞんざいで、しかも、今時の若者口調のしまりのない台詞がダラダラととめどなく続き…」などと書いていたが、ひどい見当違いをしている。
  • 大江健三郎賞を受賞した小説である「わたしたちに許された特別な時間の終わり」Amazonレビューでも「緊張感のない若者言葉が読むに耐えない。モーロクした大江の出す賞にふさわしい」などと出鱈目なことを書いている人間がいる。
  • 岡田の書きだす「せりふ」は、確かに一見、「超リアル」「だらだらとした現代の若者の口語」のようだけれども、実際は似て非なるもの、だ。
  • ばかりか、むしろ「だらだら」の対極であり、冷徹な知性よって観察し、解体され、緻密に再構築されたシミュレーションであり、過剰な反復を伴ったそれは、恐るべき批評的鋭利さを持っている。
  • ドイツでのチェルフィッチュ公演のさい、ベルリン新聞が【人生の表層を精密に観察し、外側から注意深く扱っている。社会の病的な核に、ハサミのように肉薄した】と書き、TAZ誌が【絶え間ないテクストの反復を通じ、息を呑むほどの空洞を明確に提示する】と評した如くに。
  • 以下、彼国で演じられた「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」から、「クーラー」の映像と、実際のテキストの一部*1を書きだしてみよう。


正社員(男) なんかねマキコさん、日曜朝とか、
正社員(女) はい、
正社員(男) 政治のトークとかやるのとか、番組、もしかしたら、あるじゃないですかっていう、
正社員(女) はい
正社員(男) どうですか?知ってるかもしれないですけど、そういうテレビの、見るとすごいああいうのすごいトークの、
正社員(女) はい
正社員(男) 喋りを?ああいうやつら、っていうかああいう人たち、人たちって、あるじゃないですか、なんていうか、僕見てるわけじゃないですか、そうするとね、思うんですよ僕とかすごい常に勉強になるなあっていうのは、見てると思うのがなにかっていうと、言っていいですかね、やめないじゃないですかまじですごい喋りを、持続がね、すごい喋るっていうか、ああいうやつら最後までトークっていうか粘り?そう、絶対、ていうか自分がこれ言おうって決めていることがまずあるわけじゃないですか?
正社員(女) ええ、
正社員(男) あいつら的に?そう、で、っていうのが、そう、ありますよね?っていうのがあるわけじゃないですか、まず、みたいのが、ああいう人たちって、それで、最後までああいう人たち言わないと気が、すごい人が横から来ても(「横槍を入れてきても」の意)、ガンガン入れて来ても全然完無視して、気が済むまで行くぜ行くとこまで、みたいな、全然ガンガン声とか声がかぶってきたりしても全然っていうか、ほとんど「えーっ!」っていうくらい「え、ちょっとわざとだろそれお前」くらいの勢いで、平気で行くじゃないですか、そういうのとかがすごいよなあ、やっぱりここまで行かないと?いけないよなまじで本気出して俺もってすごい見るたびにっていうか、僕とか見ててやっぱり思うってのがあるじゃないですか、オッケーだなあっていう、そう、オッケーだなあっていうか、オッケーなのかな?ってのはやっぱああいうの、なんていうのかな、鍛えて、っていうか、
正社員(女) はい、私なんかちょっと寒くて、
正社員(男) ある意味鍛えてるよなって感じが、すごい、だからすることとか、僕なんかあるってのが、ああいう人たち見てるとあるってのはあるから、そう、ある意味だからやっぱり勉強になるってのは一応あるかなとは思うんですよね、すごいああ、見習わないと俺もいっぱしのやっぱり?社会人として?少しはやっぱし?いっぱし?っていうのが刺激っていうか、相当ああいうのありますよね、っていうーーーっすよね、





  • 書かれたテキストと、「役者が発話した」テキストは、とりわけそれを知る前と、知ったあとでは響きが異なるものだ、、、、ってことが、動画と元のテキストとかを比べて見たりなんかするとやっぱり、すごく明らかにそれって、わかるじゃないですか?やっぱり?っていうのがあると思うんですけど、やっぱりね、そういうの、ないですかね?ありますよね、すごく?
  • ……まあヘタクソなモノマネはこの辺りで止めるとして、ぼくは舞台を見る前、自分の声と、自分の速度によって脳内でテキストを読んでいたが、今や「クーラー」は、演者である山縣太一の声でしか再生されない。
  • 「これテキストで読んだら面白さ8割減だよ」などと書いてあるAmazonレビューには全く同意できないのだが、演じる人間の技量によってさらなる魅力を得る(無論、逆もある)ことがある、という場合も、理解できるようになった
  • 岡田はこれを【テープ起こしのバイトでの、いわゆるベタ起こしから着想した】と過去のインタビューで語っていた。
  • 散漫な意識の流れがとめどなく音声としてダダ漏れる混沌、そこから注意深く抽出し、組み替えた「ことば」【絶え間ない反復】によって、岡田は、現代の日本人が日常行うコミュニケーションおける言葉の【無意味さ】【虚無性】を、【息を呑むほどの空洞】を浮かび上がらせる。それこそ、「息を呑むほど」に。
  • 「リアル」=「日常」へ執着する視点は、岡田の創作の根本的な姿勢だという。
  • 「ゾウガメのソニックライフ」パンフレットのインタビューで、かれはこう応えている。


僕はいつも内容的には同じなんです。つまりどの作品でも「日常」についてしか書いていない。それはなぜかというと、僕は基本的に「自分が生きているこの現実をどう肯定するか」ということしか創作の起点にできないみたいなんですね。そんな僕には、現状のオルタナティブとしてたとえば、過去の人々の生のありかたが今と較べていかに人間的だったかということを提示するようなやり方には、有用性が感じられないんですよね。だから僕はただ虚心に日常を見ていくしかない

  • 飛躍を感じる人もいるだろうが、岡田のテキストは、現在日本の、日本語表現の可能性を展開する一つの高度なオルタナティブだと…、少なくともぼくはそう確信している。
  • いま、最も注目する作家のひとりだ。

    

*1:引用:岡田利規「エンジョイ・アワー・フリータイム」2010年 白水社

チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」


2月15日(火)

  • ついにチェルフィッチュを観た。神奈川芸術劇場での千秋楽。
  • あくまで「作家・岡田利規のファンなので…、ということを理由にかれの指揮する舞台は一度も観たことがなく、この公演情報も直前になって知ったというぐらいに不熱心&情弱なぼくであったが、とても面白かったし、予想以上に刺激を受けた。これまで見逃してきたことを後悔してしまった。
  • 今後は、追っかけていこうと思う。


無知の観るチェルフィッチュ

  • はじめてのチェルフィッチュ体験に加え、ぼくは演劇全般に無関心だし、そのルールや文脈にも、そうとう、無知だ。
  • だから「ゾウガメのソニックライフ」「よさ」「面白さ」を感じた、中身というか実態を言語化するさいにも独りよがりにならざるを得ないのだけど、まず、そう、単純に役者の発する「ことば」に何の違和も覚えなかったことに(自分自身が)驚いた。
  • ぼくは岡田利規の表現を小説から知って、次に戯曲を読み出したから、以前にチェルフィッチュを僅かな映像資料で観たとき、役者を介した「人の声」が、あの脅威のベタ起こし風リアル口語台詞を喋ることによって、テキストの持つ切り詰められた硬質さや密度がひどく損なわれているようで苛々したのだけれど、「ゾウガメ」では山縣太一をはじめとした演者の卓越した表現に自然と引き込まれていた。
  • 字面の意味から乖離した身体の動きを伴い、眠気にからめ取られる寸前まで「間」をとって発話される「ことば」が、静かに、深くゆっくりと、体内に浸透してくる(せりふのいちいちを記憶しているわけでは全然なく、というかむしろ芝居の流れ自体、断片的にしか覚えていないが)。
  • こちらに内省を喚起する表現?なんだろう、今でも身体の、特定出来ない全体部分に響いている、みたいな……。
  • あの不可思議な「ことば」の力を、どう表せばいいのだろうか?
  • いわゆる「演劇」で見られるような「演技」ではなく、表情、や抑揚、を殺し、テキストの表面だけをなぞるように奇妙に一本調子な演者の声と仕草。
  • かといって雑な棒読みの単調、ということは全くなくて、穏やかで決然とした示威?こう書けば、近いかもしれない。特に山縣太一の、柔らかく滑らかなのに鋭く耳と神経に刺さってくる声が持つ場の支配力には、いっぺんで惹きつけられた。思いっきり吹き出してしまうようなユーモアと同時に、背筋を寒くさせ、戦慄させる緊迫感があった。

境界線上としてのチェルフィッチュ

  • 「まあ、既存のルールを捨てるところから始めてもらわないことには、どうしようもないですよね」
  • 「ゾウガメ」の作品パンフレットで岡田氏は「既存の観劇ルールを捨てて、今回は作品にのぞむべきなのでしょうか」という問いに、上記のように応えていたけれど、繰り返すが演劇の伝統的な作法に関してほぼ全く無知・無関心であり、美術→散文という流れでものを作っている僕にとっては、ある意味、戸惑いは少なかったと言える。
  • チェルフィッチュ【演劇というシステムに対する強烈な疑義と、それを逆手に取った鮮やかな構想が高く評価され、とらえどころのない日本の現状を、巧みにあぶり出す手腕に注目が集まった】と紹介されているのだが、岡田氏自身もチェルフィッチュが「演劇」と見なされるかどうか、という点にはかなり意識的なようで(当たり前か!)、【ゾウガメのソニックライフ】 特設サイト束芋相手に語っていた内容がとても印象的だった。


僕がおもしろいと思っているのは、自分が“ザ・演劇”の賞である岸田戯曲賞をいただいてしまったことですね。それによって僕は演劇というカテゴリーの中に普通に入れてもらえているんだけど、そうでもなければたぶん僕がやってることは演劇と見られていないだろうと思うんです。「あれは演劇っていうか、美術寄りのパフォーマンの人たちでしょ」って言われているというパラレルワールドを容易に想像できますし。だから岸田賞いただいたのは、事故ですよね。そのおかげで「演劇」という色眼鏡で見てもらえてる。それはすごくおもしろいことですよね。

  • 「あれは演劇っていうか、美術寄りのパフォーマンスの人たちでしょ、って言われているというパラレルワールドを容易に想像できます」
  • これには、ああ、やっぱりそうなんだ、と腑に落ちるところが凄くあった。
  • 【演劇】への【疑義】を核に据えて作られた【演劇】
  • それは、ひとつの「役」「せりふ」を与えられた役者が主題と道筋のある「物語」を演じ再現するようなものからは遠ざかり、舞台を構成している各要素の意味のつながりが分解されるだろう。
  • 「ゾウガメのソニックライフ」には恋人の男女が二人、アパートで「日常」をめぐってあれこれと話しあっているという戯曲上の設定はあるが、「彼」、も「彼女」も、ずっと固定されているわけではない。
  • 5人の役者がかわるがわる「彼」になり「彼女」になり、または「彼」「彼女」を語り、さまざまなモノローグが行われる。そのあいだも、独白と関係があるような、ないような状態で立ち尽くす者、奇妙な動作を絶え間なく行ってゆく者など、舞台上には立体的な、いくつものレイヤーが生まれている。
  • こう書きだすと、指摘されているように「美術よりのパフォーマンス」として解釈した方が分かりやすいかもしれないが、チェルフィッチュの持つ特異さは、あくまで戯曲を下敷きにし、舞台で行われる【「テアトル(演劇)」への「疑義」】オルタナティブであるというスタンスが重要なのだと思う。
  • 目指されているものは、黴臭い演劇ではもちろん無く、しかしダンスでも、現代アートでもない、なにか名状し難い領域なのだ。たぶん。

「うんざりさ」と、「日常」

  • 【「ゾウガメのソニックライフ」は、わたしたちが感じているうんざりさ(および、その主な要因である社会)に、どこかしら普遍的なものがあることを、せめてものこととして信じて、つくられます。】
  • 今回の公演に寄せて岡田氏が書いたメッセージの、この分かるような分からないような一節は、舞台で行われたことの内容をうまく表している。
  • 「うんざりさ(および、その主な要因である社会)」はわたしたちの「日常」を薄く覆っていて、その「煮詰まり」は不可避的に進行しているのではないかということ。そこから「せめてものこと」としての、漠然とした「脱却する的なテクニック」の曖昧な提示…
  • なんだかわかったようなことをダラダラと書いてきたが、実際には、ぼくは、なにもわかっていないのかもしれない(たぶん、そうなのだ)。
  • 来月発売の新潮に、戯曲全文が掲載されるとのことなので、きちんと読みなおしてみたいと思う。

ボクシング/日本ミドル級/タイトルマッチ


2月14日(月)

  • 後楽園ホールでボクシングを観る。日本ミドル級タイトルマッチ10回戦。
  • アルバイトをしているデパートに、配送の仕事で訪れる氏家福太郎さんが挑戦者として出場するため、応援に出かけた。かれの応援は、9月の挑戦者決定戦を観に行って以来、二度目になる。
  • この日は三連休明けの週明け、加えてバレンタインデー、そしてさらに夜は激しい降雪が予想されるという、まあ、なかなか最悪なシチュエーションではあったのだが、前座でバンタム級国体二連覇のホープ、戸部洋平がプロデビューするということもあり、各選手応援団で会場の八割ほどは埋まっていただろうか。
  • 戸部の応援には鴨川市長も来ていたらしいが、氏家さんが挑戦する王者・渕上誠の応援には北島三郎がかけつけていて、驚かされた。ご祝儀で名前が読み上げられたときは「いま北島三郎っていわなかった?」というぐらいの反応だったが、リングサイドで本人が紹介されると、ホールはしばしどよめきと歓声に包まれた。
  • 氏家さんは熱戦の末、残念ながら8回後半レフェリーストップによるTKO負けで二度目のタイトル挑戦に失敗してしまった。30歳という年齢を考えると、このまま引退してもおかしくないのだけれど、再起するとのこと。ミドル級はボクサー数も少なく、また順番が巡ってくる可能性も高いので、頑張って欲しい。

ボクシングの輪郭

  • ひさしぶりに後楽園ホールで興行を観るのは、ふだんネットで観たり漁っている世界各地のタイトルマッチとはまた違った味わいがあるものだ。
  • 興行は全体で八試合ほど組まれていて、ぼくは東側二階席(青コーナーを正面から観れるので…)で最初から最後まで立っていた。前座の四回戦やキャリアの浅いノーランカーなど、選手は気を悪くするだろうが、ときに「まとも」な動きになっていないところが比較の問題として非常に面白いのだ。
  • 例えばHBOの前座やESPN2、ShowBoxに出てくるような凡庸な世界ランカーと比べても、彼らが「自然に」やっているようなレベルの動きが、実はまったく「自然」ではないということ。
  • ハンドスピード、反射速度、フットワーク、ガード、ポジショニング、それらを備えていることが担保となった、身体全体が放つプレッシャー…… 一つ一つの次元がまるで違う。
  • そんなの当たり前だろう、という話かもしれないが、ハイベルな競技者の、ハイレベルたる所以みたいなものは、ときおり忘れがちになるものだ。
  • ボクシングを含む近距離の対人コンタクト競技では、同じようなレベルの両者間で相対的に優れている方がその試合で可能だった動きが、レベルが違う相手にはまるで不可能になる。当たり前のようで、実に不思議なものだ。しかも、それが僅かの時間にあらわになると、余計にその感覚は増す。
  • 何気なく見過ごしている要素を意識することで、ボクシングというものの輪郭が、はっきりとする。

「身内」で完結すること

  • そして、マイナー競技にありがちなこととしての、きわめてアマチュア的というか、部活動の応援っぽい身内ノリが会場を覆っているのが、やはり面白い。
  • おおざっぱに言えばだが、あまり注目されていない日本タイトルだと、来場者は身内か関係者にほぼ限定される。アンダーカードにもよるけれど、それでキャパの8割以上が埋まったりするので、場内はさまざまにドメスティックな声援で満たされ続けることになる。
  • このなんとも「閉じた」雰囲気は批判されがちで、実際システム的にさまざまなマイナス面も目立つわけだが、単に無責任な観客としてみたら、悪いものではないなとも感じる。ちょうど良いぐあいの親密感と距離感。
  • アメリカやメキシコなどのボクシング先進国でも、州の片隅での草ボクシングに近いような少興行が週末ごとにあり、血の気の多そうなデブのレッドネック的おやじが酔っ払ってコーフンしている図はなかなかに微笑ましい。ぼくが細かくウォッチしている亡命キューバ人たちも、王者を狙う一部の人気者も含め、やはりフロリダ州、それもマイアミで試合をすることが圧倒的に多い。客の大半がキューバ系だ。

データベース化/そして、情報の交通肥大・飛躍・拡大

  • テクノロジーの進歩で情報伝達が圧倒的に容易になり、テレビの力でボクシングが興行として一時代を築いたのは間違いないが、景気の後退に加え、あまりにも趣味や娯楽が多様化して底が抜けている今は、タイソンのような世界的スケールの超人が登場する可能性は低い(メイウェザーやパッキャオ辺りなら、ギャラだけは凄いけど…)。
  • もともと、サッカーのように誰もができる、楽しめる競技ではないし(なにしろ要は殴り合いなのだから)、今後はますます、物好きと身内で完結するような興行に収まっていかざるを得ないのかもしれない。
  • ただ、ウェブを中心にした情報伝達のテクノロジーは前世紀と比べてもさらに飛躍的に発展し、従来は限られていた情報へアクセスすることが可能な人間の規模は拡大し続けているから、データベース化と情報の交通はさらに加速するだろう。つまり、マニアの楽しみは増していく。
  • 以前、まるでボクシングに興味の無い知人に、こう言われた。
  • ウクライナの配管工や商店主が、巨人のシーズン勝敗を全部知っていたり、長野が新人王を貰えるかどうか議論していたりしたら、異様なことだろう?良いか悪いかではなく、それは普通じゃないだろう?日本人のフリーターとかリーマンが、亡命キューバ人やアフリカ人ボクサーの動向や成績に並外れて詳しいのは、それに似たおかしさがある」
  • 考えてみれば確かに異様なのだが、そういう「異様な」状態が、21世紀的な情報流通のリアリティだろうし、そこには新しい可能性がある、と思う。

メモ/音楽的散財/リスト

  • 前回エントリ「WE DON'T CARE」を観に行ったことを書いたが、それに刺激されたこともあり、久しぶりに音響やトロニカ系のアルバムを発作的に買い漁る。今年に入って初の音楽散財。
  • 音源の候補選定は、今回も「デンシノオト」を全面的に参考にさせて頂く。
  • 猟歩するのは実店舗ではなく、Web。ワールド系のマニアックな音はいまだに配信にも通販にもなかなか商品が増えないので目利きの運営する店に行く意味もあると思うが、同じマイナーでも、この種のジャンルは無数のWebレーベルの無数の音源を、同じく無数のちいさなネットショップが熱心に販売していて、しかもiTunesにもかなりの量がそろえてあるので、家から出る理由がないのである。
  • 今回、iTunes以外に、Amazonのmp3販売をはじめて試してみる(どうも胡散臭い気がしていたのだけれど、意外やこれが、安い、軽い、早い、音質もOKで、品揃え意外はiTunesを圧倒している)。どちらにも配信されていないものは、しょうがないので現物を注文した。

買ったものリスト

    • リュック・フェラーリ大友良英 【 Les archives sauvées des eaux 】
    • マーク・リボー【 Silent Movies 】
    • マーク・マクガイア【 Living With Yourself 】
    • evala / 江原寛人 【 Acoustic Bend 】
    • Fenn O'Berg【 Live in Japan Parts One & Two 】
    • Spencer Doran & White Sunglasses【 Inner Sunglasses 】
    • エメラルズ【 Does It Look Like I'm Here? 】
    • Jefre Cantu-Ledesma 【 Love Is A Stream 】



  • 書きだしてみたら八枚もあった。
  • 配信は価格が安く、Amazonの通販共々にクレカ一括払いのため、スイッチが入ると止まらなくなってしまう。
  • ぼくは最初の一枚を買い出すまでの躊躇いが長いのだが、あとはわりと、堰を切ったようになってしまう。
  • 以下、音が聴けるものに関してはリンクを貼って少しだけ感想を付けてみる。
  • どれも素晴らしいのだが、今のところFenn O'Bergがライブで展開してみせた圧倒的にサイケデリックな電子的カオスと、マーク・リボーがわずかなギターとエフェクトのオーバダブで仕上げた 【Silent Movies】の、息を呑む静謐さと美しさが印象的だ。一曲一曲最小限に切り詰められているので、手軽さもあって、一番聴いている。

リンクと寸評


  • 【 Silent Movies 】はリボーが映画音楽のために書いた曲や、過去の無声映画にインスパイアされた曲を集めたアルバムとのことだが、大げさでなく、これほどギターが独自のノスタルジックな響きの美しさを獲得しているアルバムは稀ではないかと思う。
  • ピアソラの濃密な感情表現とも違う、旋律も音数も抑制され、切り詰められている。
  • モノクロームのセンティメンタリズム」。素晴らしい。それ以外にない。
  • 感傷、しかし、それはただ暗鬱なだけでもなく、安酒場でうっとりと過去を語る気色悪いカントリー・ミュージックナルシシズムとも完全に無縁だ。
  • 最小限の音で爪弾かれる冒頭のVariation 1が醸す寂寥たる残響を残したまま、メランコリックなDelancey Waltzへ入る流れで、既に、ああ「息もできない」!


  • エメラルズのギタリスト、マーク・マクガイアのソロは、下でリンクしたエメラルズの最新アルバムがそうであるように、マニュエル・ゲッチングの影響を感じさせる反復とディレイの多層的ギターが、甘美で「健康的(若者による青春の回顧!)なセンティメンタリズム」に溢れた旋律を奏でる。音のトリートメントは十分に考えられているが、これ見よがしなラディカリズムなどないぶん、ポップスのように楽しめる。
  • Fennesz「エンドレス・サマー」とも比較されるようだが、あちらがゼロ年代の電子音響的ポップネスの最良のかたちの一つであるなら、このアルバムは確かにそれを前進させ、展開させたと言っていいんじゃないか。ロック的なぶん、「軽い」が、音響にシフトしているエメラルズのアルバムより、ぼくは好きだ。



  • Jefre Cantu-Ledesma 【 Love Is A Stream 】
  • 今や少し時代遅れになったとも言われる音響シューゲイザーだが、このアルバムはその最高の成果に近いのではないか。中心が存在せず、多層的なグリッチ/轟音が天空に抜けてゆく鳥肌たつ陶酔感。凶暴なようで制御された音色に、瞑想的なトーンも感じる。全体を通して聴くと単調さもあるけれど、「浴びる」心地良さは特筆すべきレベル。



  • Spencer Doran & White Sunglasses 【 Inner Sunglasses 】
  • ガムランカリンバグリッチ、及びエレクトロニカの融合が見事なアルバム。
  • 金属的な民族楽器をサンプリングした音色とグリッチー、ドローンな音のレイヤーがカラフルで面白い。とりわけ、冒頭に収められたこの「Awakening」は最高にキモチイイ。音響的シューゲイザーの新たな可能性とも言える??


  • Fenn O'Bergは良いサンプルがなかったけれど、【 Live in Japan Parts One & Two 】サイケデリックな混沌が聴き手を飲み込む掛け値なしの大傑作なので、iTunesで試聴してみてください。十年代も最先端のユニット。


  • evala / 江原寛人 【 Acoustic Bend 】
  • このアルバムもiTunesにしかサンプルが転がっていないが、音響デザイン的な作品に興味があるなら必聴の一枚。
  • フランスにある実験的音楽の研究所「IRCAM」が発売した音楽プログラミング・ソフト、MAX/MSPをフルに活用し、フィールドレコーディングした音源も組み込んだ緻密極まるプロセッシングによって、巷に溢れる「雰囲気系」のフィールドレコーディング作品を吹き飛ばす、驚異的な音像が作り上げられている。
  • 歩きながら聴けば、世界の相貌がまるで変わることが実感できるだろう。

「WE DON'T CARE」を観たのである

2月4日(金)

  • ユーロスペースのレイトショーで、日本の大量消費社会とノイズ・ミュージックシーンをミックス・ドキュメントした映画「WE DON'T CARE」を観る。火曜日に冷たい熱帯魚に出かけたのと同じ顔ぶれ。
  • 渋谷のモスバーガーでマック、モス、バーガーキングの比較をしながら腹を満たしたあと、ラブホ街でもつれあう男と女の有様に「からだ」の粘膜的コミュニケーションのラブ&ピースな因果地平を感じつつ、会場へ。
  • ぼく以外のふたりは、「所謂」ノイズ・ミュージジックと呼ばれるもの全般に、まるで免疫がない。興味もない。
  • 「たぶん刺激になるよ」という詐欺的な誘い文句により、なにがなんだかよく分からないまま、上映開始を迎えることに。
  • マアぼく自身もそれほどノイズ・アヴァンギャルドに詳しくも、傾倒しているわけでもないのだけど、こういう映画自体が貴重なものだし「せっかくだから」(byコンバット越前というぐらいの気持ちだった。


  • 映画は、さまざまなエフェクトを用いるアナーキーなチェロ奏者、坂本弘道が廃屋で演奏するシーンで幕を開ける。数分して、産廃置き場に現れた大友良英ターンテーブルにレコードをセットし、脳に響く高音ノイズを奏で始めるのだが、このシーン付近で数名の観客が退席していった。
  • 以後も、劇中でノイズが激しくなってゆくにつれ、ぽつぽつと席を立つ人間がいて、のべ、十人以上になったのじゃないだろうか。




ユーロスペースで観客が途中退席なんて、はじめて見ましたよ!」

  • ミニシアター・マニアであるYさんは、終演後の帰り道で、退席者が出たという事実に興奮し、鼻息荒くしていた。
  • 「こういうところに来る人ってのは、もう、あらかじめ【覚悟】してきた人だけだと思ってたんですが、それすら裏切ったということか!」
  • 実際、出て行った人間がどういう理由で退席したのかは分からないけれど、仮にこの映画に対してなにかを勘違いしていた場合、場内に満ちた音は耐え難かっただろう。たぶん。
  • だって、「音」に対して無防備な人が、ピーとかガーとかグギャーとかピコピコビコンッ、ドゥヴァ、ヴァヴ!ギャギャヴヴヴァァァァみたいな超高音や濁音が大音量で鳴り続けてて平気なわけがないから。
  • 数分ごとに新たに登場してくるミュージシャンは、いずれも攻撃的で凶暴なノイズを観者に突き刺す。その合間合間には円卓を囲むかれらの「演奏」に関するモノクロの雑談風景が挟み込まれ、監督であるフランス人の目が切り取った「トウキョウ」の、異様な「風景」がシンクロしてゆく。
  • トウキョウ/大量消費社会/ノイズ、という視点だと聞いたから、もっともっと「トウキョウ」「なまの音」からノイズへの近接を探る映画なのかと思っていたが、画面にかぶさる音はすべてノイズ奏者たちの爆音である。これには意表をつかれた。
  • 本来の音を剥奪され、「吹き替えられた」風景。
  • 唐突で断片的なカットといい、まるでアート・フィルムのような質感。
  • 見慣れきってもはや特別な意識も持たない日常の風景が、外部の視点によって少しズラされるだけで、どれだけ滑稽で異様なものとして再構築され、立ち上がるのか。
  • 現代美術の映像的な方法論としては手垢にまみれたものだとはいえ、「WE DON'T CARE」が示す「トウキョウ」は新鮮だった。
  • もっとこの部分に集中してフォーカスしてくれた方が、より面白い映画になったのではと感じる。
  • ミュージジャンたちの演奏もそれはそれで楽しめるものだったが、どうも「トウキョウ」との関連が希薄で、それが映画としては散漫さに繋がっていたのではないか。
  • 「これってさあ、別々でいいんじゃないか?ミュージックビデオは改めてつくってよ」とさえ思ってしまうのだ。モノクロームの会議シーンなども、各自が勝手に内輪ノリで自分たちの音楽観をダラダラと喋っているだけで、浮いていた。

雑音/楽音/それを「認識」すること

  • 感想として、Yさんはそれなりに面白がっていて、「音楽としてああいうものがあるっていう文脈はわかりますよ」と言っていたが、後輩Sは、最期まで理解不能、というか「こいつら、頭ダイジョウブ?」という状態だったようだ。
  • 「1700円払って苦痛を体験するってことについて、途中から考えてたよ!色々言いたいことあんぞオイッ!」と、逆にテンションが高くなっている有様に。
  • Sの反応は、「音楽」とはまずもって分類や「認識」の、つまり脳の問題であり、ノイズはそれが肥大したものなのだということを改めて実感させてくれて(かれにとっては気の毒なことであったが)、ぼくとしては面白かった。
  • 一部のグリッチアンビエントも含む、広義のノイズ・ミュージックの成り立ちとは、既存の認識においては「音楽」以前に、「楽音」としてさえ捉えることなどなかった周波数、音色、テクスチュア、リズムetc……それら「雑音」「音楽」として「発見」し、構築することであり、それは電子音楽だとかポスト・セリエルだとかトーン・クラスターだとか一部フリージャズだとかの試みというかたちで、実験的な音を志向する音楽家たちによって作りあげられてきたわけだが、その「認識」拡大ハードルは、やっぱり、とても高い。
  • 人の耳→脳が、自然に(自然、なんて言うと乱暴だが)求めるものは、(文化によって違いはあれ)パターン化した旋律や和声やリズムだ。それから自由になるのは難しい。人類が長いことかけて作り上げてきた文化的な「からだ」=脳の反応はとても強力だ。
  • 実際ぼくだって、三度の飯よりノイズ好き、なんて人間の話を聞いたら、彼彼女の精神状態を疑ってしまうもの。
  • そうした困難なハードルの高さを突き破るからこそ、一部のノイズ・ミュージックは、とても「美しい」し、面白いのだけど、残念ながら、この映画にそこまでの強度はなかったように思う。理解も免疫もない人間に、「認識」の拡大を促すような、轟音の只中に引きずり込んでしまうような得体のしれないパワーや引力は無かった。その意味ではマニアのものであり、マニアなら間違いなく楽しめるだろう。
  • (ただ、繰り返しになるが、個人的にはミュージシャンより、さらなる「トウキョウ」が観たかったのだけど)。

メモ/ノート/藝大卒展/散髪のこと


2月3日(木曜)

  • アルバイトを終えたあと、ひさしぶりに上野まで足をのばし、東京藝術大学の卒業制作展に出かける。
  • この日は最終日。都芸時代の同級生だった、山田という友だちが油画棟にて展示をしていたので、それを観に行った。
  • 多浪多浪を重ねたかれが、おそらくは、あの年の卒業生で最後に残った「学生」になるはずだ。
  • このまま修士課程に行くのかどうかは知らないのだけれど、その場合、あと二年。修了時には30歳を過ぎるわけだが、いまの人間の平均寿命を考えれば、むしろそのぐらいでちょうど良いのではないか、と思ったりもする。
  • ダ・ヴィンチが渦巻きを捉えようとした有名な素描を直ちに連想させる線で、樹木のようなものをモチーフに描いたかれの作品は、大作である卒制より、置いてあったファイルに資料として収められた多数のドローイングの方が優れたものだと思えた。作者の創造への意志や精神性というか、人格的なもの(つまりは、作家性)をよく表していて、興味深かった。
  • 油画の卒展全体を見渡しても、ビデオやインスタレーションは非常に少なく、絵画がそのほとんどを占めていたが、明らかに非・脱・反時代的な山田の創作は、良かれ悪しかれ、浮いていた(沈んでいた、と見る人もいるか)。
  • かれの作品には、袋小路がどこまでもどこまでも伸び続けていくような、ゴールは見えているが、けしてそこにたどり着くことはないというモヤモヤした感覚がある。
  • 以前から比べると画面の純度は上がっているし、「個」の輪郭もはっきりしているのだが、どこか外部への回路がシャットダウンした/されたような、目に見えないバリアが張り巡らされているみたいな閉塞がある。
  • それは「殻(自我の?)」なのか?
  • ぼくには分からないが、その重苦しさをどう扱うのかが、今後の作品展開にとって重要なものではないか、という気は、強く、する。
  • 油画棟の入り口付近で小山登美夫氏のご一行とすれ違う。
  • 「そういえばレントゲンの人も、Twitter"めぼしいものは無し"なんて呟いていたな」と思いながら藝大をあとにして、表参道へ移動する。
  • 前日、約一ヶ月ぶりに会って韓国料理屋で留学生と一緒に飲んだ、脳科学系サラリーマンであるましばさん(仮)に、「あれ?えーと、パー、、マ?ですか?」と半笑い&半疑問の表情を浮かべられたこともあって、そろそろ髪を切らなきゃいけない、と思ったのだ。
  • ぼくはヒドい天然パーマなので、放っておくと冴えない外人のカツラ状態になってしまう。
  • 予約した時間まで少し間があったため、渋谷のマクドナルドでメチャ不味いカフェラテを飲みながらダン・ファンテ「天使はポケットに何も持っていない」を小一時間ほど読む。
  • 翻訳は、ブコウスキーも手がけている中川五郎
  • ダン・ファンテは、C.ブコウスキーが神とあがめた作家ジョン・ファンテの息子で、当然かれもアルコールで生活を破壊した過去を持つ。
  • 作品のテイストも、50歳でのデビューも、ブコウスキー的だ。父の死を回顧する私小説的フィクション。ブクほどの覚めたユーモアと批評の切れ味はないが、アル中の、自己憐憫に満ちた老ブルテリアとのオン・ザ・ロードは、文学としての確かな核を持っている。


     

  • 14時から予定通りに店へ。
  • いま、大学時代から担当してもらっている、美人すぎる美容師Mさん(実際、本当に美人すぎるのだ)は育児休暇中。代打には、男性美容師Iさん。
  • Mさんよりも仕上がりがふわふわしていて軽く、女性的なのがとてもおもしろい。Mさんの方がむしろエッジの利いたシャープで男性的なカット。
  • これは普段Iさんの客が(おそらくは)女の子ばかりで、Mさんの客の八割が男だということが関係しているのかもしれない。
  • Mさんの復帰は4月だけれど、伸ばしすぎるのはやっぱり不潔だなと、切るたびに感じるので、その前にもう一度くらい短くしようかと思う。
  • 渋谷までの帰路、国連大学前でミャンマーの暴政を訴えるメッセージカードを持った数十人の人々を目にしたら、なぜか急に小腹の空きを覚えた。
  • 近くにあるおにぎり屋に入って、塩だけのものと紀州南高梅入りのものを、ひとつずつ食べる。にぎりの量も大きく、いい味。これで緑茶がつけば文句なしだったが。
  • 隣の席では、陰気な顔をした白人が、味噌汁を飲みながらiPadでエジプト情勢らしきニュース写真を見ていた。
  • ミャンマーもエジプトも、ここでは全くリアリティがないが、情報だけは、おそろしい速さで世界を巡っているのだ。